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211 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/29(月) 12:28:58.27 ID:wXZXXF2x - どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。 そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。 そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、 日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。 「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。 法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。 つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、 末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、 「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、 こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる 日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。 日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。 また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。 日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、 たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。 江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、 「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、 寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。 檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。 また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、 行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、 各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。 近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、 勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、
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215 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/29(月) 22:48:45.76 ID:wXZXXF2x - 総主教庁との連絡を断たない府主教セルギイに対する疑問の声が上がりつつあった。ソ連当局の監視下にあるモスクワ総主教庁との関係を巡り、
見解の差異が教会内に生じて動揺が起こるといった現象は、西欧・米国をはじめとして全世界的に各地正教会にほぼ例外なくみられたが、日本 正教会もその例外ではなく教会に亀裂が生じた。問題が複雑になったのには国内の事情だけではなく、在外ロシア正教会というソ連からの亡命 ロシア人が中心になって結成した小さくない教会組織が1922年9月13日にセルビアのスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Срем ски Карловци) を中心に設立され、モスクワとの対決姿勢を鮮明にしていたことにも起因していた。セルギイ・チホミーロフ府主教 は1929年の時点では母国ロシアでの共産主義革命に深い嫌悪感を隠さず、各種著述でも痛烈な言辞で全否定しているが、同時に在外ロシア正 教会の動向に対しても分派的であるとして否定的であった。また年を経るに従って府主教セルギイはソ連の下で弾圧されるロシア正教会の 状況認識に甘さを見せるようになった。ソ連当局による検閲を経て届くモスクワ総主教庁からの手紙の内容を鵜呑みにし、実際にはソ連の下で 激しく弾圧されるロシア正教会が「正常な道を歩んでいる」とまで述べた、弾圧の実情からかけ離れたものとなった府主教セルギイの認識の変 化は、1931年にはセルギイの説教などにも表れて巷間に知られるに至った。こうしたセルギイの認識は亡命ロシア人には到底受け入れられるも のではなく、亡命ロシア人のみならず反共産主義の気運の高かった日本人信徒の間からも広範な反発が起きるに至った。このような状況下で、 日本政府から日本人主管者を選ぶよう圧力が高まった時、日本正教会は抗すべくもなかった。この時代には日本正教会のみならず国内全ての教 会が何らかの抑圧を受けており(「日本キリスト教史」の「昭和から平成へ」を参照)、この点でも日本正教会は例外では有り得なかった。1940 年(昭和15年)、セルギイ・チホミーロフ府主教は引退を余儀なくされ、後任の人選を巡って紆余曲折を経たのち、ニコライ小野帰一主教が日本 正教会に着座した。それでも当局の監視は緩むことなく、高齢のセルギイ・チホミーロフ府主教は1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受 け、約1ヶ月拘留された。釈放後ほどなくして、同年8月10日、終戦の数日前に府主教セルギイは永眠した。拷問による衰弱死だったとい われる。74歳であった。11日に遺骸はニコライ堂に安置され、二日後に埋葬式が行われた。牧島省三の憲兵隊との交渉により、軽井沢方面に 居住していた在日ロシア人は許可を得て参列することができた。その後、セルギイ府主教の遺骸は、谷中のニコライ・カサートキン大主教の墓の 隣に埋葬された。戦後すぐ、日本正教会は当局の圧力によって歪められた教会秩序を正常化しようとしたが、容易ではなかった。GHQから、日 本正教会はソ連の影響下にあるモスクワ総主教庁ではなく、のちにアメリカ正教会に発展することになる「北米メトロポリア」と関係を持つよ う指令されたからである。在外ロシア正教会と北米メトロポリアの間の関係も第二次世界大戦前後の時期にこじれており、在外ロシア正教会の 下にあった主教に叙聖され主教に着任したニコライ小野主教の立場が微妙なものとなった。また、これまであまり関係を持ってこなかった北米 メトロポリアの指導下に入ることについても日本正教会に動揺が起こり、この経緯において、ごく少数ではあったが、北米メトロポリアの指導下 に入らず、モスクワ総主教庁の直接の管轄を受けるグループが形成された。全世界の正教会にとって頭の痛い存在であったソ連邦が存続してい た以上、ソ連邦の影響下にあるロシア正教会との関係を巡る諸問題は世界的に全正教会に共通したものであり、上述の通り戦後になっても日本 正教会に安寧が訪れることはなかった。戦後すぐから1970年まで、自らの管轄等の諸問題を巡って日本正教会の動揺は大きく続く。この時代 の日本正教会の混乱は極めて大きく全国各地の正教会に及んでおり、様相は二転三転して複雑である。その全貌を公平な立場から俯瞰し記述す ることは、今なお極めて困難である。この間、日本には北米メトロポリアから主教が派遣されていた。このような状態にありながらも日本正教 会の奉神礼は継続され、新聖堂の建立・新たな聖歌譜の出版等もなされるなど一部では依然として活発な教会活動も継続していたが、日本国内 の西方教会が戦後すぐのころから教勢を大きく拡大していく中、かつてカトリック教会に次ぐ教勢を誇った正教会は教勢を拡大する機会を失い、 停滞を余儀なくされることとなった。ニコライ列聖・自治教会成立-現在1970年に至り、モス
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