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209 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 19:59:05.27 ID:MR8j4oUV
命者と伝統により古いキリスト教の中心地であったドラスタル(シリストラ)に居住する傾向があった。972年4月5日、ビザンティン帝国(東
ローマ帝国)皇帝ヨハネス1世ツィミスケス(イオアンニス1世ツィミスキス)はプレスラフを攻略して焼き払い、ブルガリアのツァールボリ
ス2世を捕えた。ダミアン総主教は、当初は西ブルガリアのスレデツ(ソフィア)に逃亡した。続く時代、ブルガリア総主教の居住地はコミトプ
リ(Comitopuli)と呼ばれる君主制支配とビザンティン帝国の間の戦争の展開に密接に影響を受けた。総主教ゲルマンは断続的に、モグレン、
ヴォデン(エデッサ、現北部ギリシャ)、プレスパ(現マケドニア共和国南部)に居住した。990年頃、次代の総主教フィリップはオフリド(現
マケドニア共和国南西部)に居住地を移し、ここが総主教の座所となった。1018年、ブルガリアがビザンティン帝国の支配下に服すると、ヴァ
シリオス2世(バシレイオス2世)ブルガロクトノス(「ブルガリア人殺し」を意味する異名)はブルガリア正教会の独立正教会位を承認した。
特別条例(royal decrees)により、帝国政府はブルガリア正教会の領域・教区・財産・特権を認めるとした。ブルガリア教会は総主教位を剥奪さ
れ、大主教区に格下げされた。最初の大主教イオアンはブルガリア人であったが、後継者達およびその後の全ての高位聖職者達は例外なくギリ
シャ人に占められた。しかしながら修道士や普通の司祭は依然として主にブルガリア人であった。大半において大主教区は民族的性格を維持し、
スラヴ語奉神礼を保持し、ブルガリア文学の発展に貢献し続けた。オフリド大主教区の独立正教会位は、ビザンティン時代、ブルガリア時代、
セルビア時代、オスマン帝国時代の間、尊重され続け、1767年の不法な廃止まで存続した。1185年・1186年の、ペタル4世(Peter IV)とイ
ヴァン・アセン1世(Ivan Asen I)兄弟による反乱が成功した結果、第二次ブルガリア帝国の創設者達はタルノヴォを首都とした。国家の主権
は教会の独立性と不可分であるとするボリス1世以来の原則により、兄弟は直ちにブルガリア総主教座の回復に取り掛かった。手始めに、彼等
は独立した大主教区を1186年、タルノヴォに創設した。当該大主教区に対する教会法上の承認と総主教座への昇格を巡る係争は約50年間に
亘った。ボリス1世の例に倣い、ブルガリアのツァールカロヤンはコンスタンディヌーポリ総主教とローマ教皇インノケンティウス3世との間
を数年に亘って巧みに操った。ついに1203年には後者から、タルノヴォ大主教ワシリイを「ブルガリアおよびワラキアの首座および大主教」
とする宣言が出された。ローマ・カトリック教会とのこの合同は、約30年以上続いた。ツァール・イヴァン・アセン2世(Ivan Asen II,
1218-1241)の統治時代に、ローマとの合同状態の終焉と、ブルガリア正教会の独立正教会位の承認の環境が創出された。1235年に、一つの教
会会議がランプサコス(Lampsakos)に召集された。コンスタンディヌーポリ総主教ゲルマノス2世が議長を務めたこの会議において、東方の
全ての総主教の同意を経て、会議はブルガリア正教会の総主教位を確立し、ブルガリア大主教ゲルマンを総主教に叙した。13世紀末にタルノヴ
ォ総主教庁の教区は縮小したが、その権威は東方正教会世界においてなお高位を保っていた。コンスタンディヌーポリ総主教からの抗議にも関
わらず、セルビア正教会の総主教位を1346年に承認したのはタルノヴォ総主教であった。14世紀にはタルノヴォ総主教庁の庇護下にタルノヴ
ォ文学派(Tarnovo Literary School)は発展し、ブルガリア総主教エフティミイ(Patriarch Evtimiy)、グリゴリイ・ツァンブラク(Gregory
Tsamblak)、コンスタンティン・コステネチキ(Constantine of Kostenets)らを輩出した。重要な文化的開花が文学・建築・絵画にお
いて特筆され、宗教的・神学的文学もまた花開いた。オスマン帝国によってタルノヴォが1393年に陥落し、総主教エフティミイが流刑となる
と、独立正教会組織は再び破棄された。ブルガリア主教区はコンスタンディヌーポリ総主教庁に従属させられた。もうひとつのブルガリアの宗
教的中心地であったオフリド大主教区は若干の間(1767年まで)残り、信仰と敬神の拠り所となった。オスマン帝国がイスラーム国家であった
ために、オスマン帝国による支配を受けた時代は、ブルガリア正教会の歴史の中でも大変困難なものとなった。同様にブルガリア人の歴史にお
いても最も困難な時代であった。オスマン帝国による突如とした征服後、ブルガリアの教会と修道院の大多数は、タルノヴォにあった総主教座教
会である聖昇天聖堂も含めて破却された。残った聖堂もモスクに転用された。大半の聖職者が殺害され、タル
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210 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 20:06:57.27 ID:MR8j4oUV
ノヴォ文学派に関わった知識人は、
近隣のセルビア、ワラキア、モルダヴィア、ロシアに逃れた。オスマン帝国の支配下にあったブルガリアの多くの地域、殆どの大規模な町に致
命者が記憶されているが、これらは征服当初におけるイスラームへの改宗強制の中で致命した者達である。クラトヴォの聖ゲオルギイ(1515
年致命)、ソフィアの聖ニコライ(1515年致命)、スモレンの主教ヴィサリオン(1670年致命)、ガブロヴォの聖ダマスキン(1771年致命)、ム
グレンの聖ズラタ(1795年致命)、ブルガリアの聖イオアン(1814年致命)、スタラ・ザゴラの聖イグナティ(1814年致命)、ガブロヴォの聖オ
ヌフリイ(1818年致命)のほか、多くの致命者が信仰を守った。多くのブルガリア正教会の指導者達が処刑された後、ブルガリア正教会はコン
スタンディヌーポリ総主教庁に従属させられた。オスマン帝国のミッレト制はコンスタンディヌーポリ総主教および府主教達に重要な行政・司
法上の権限の数々を与えていた。オスマン帝国支配下の初期にあって、ブルガリア教会の高位聖職者がギリシャ人にとって代わられると、ブル
ガリア人は、政治的にはオスマン帝国、文化的にはギリシャ人聖職者からの、二重の圧迫にさらされる事となった。18世紀後半にギリシャ民族
主義が起きてきたことに伴い、聖職者達はギリシャ語とギリシャ人としての自覚を新興のブルガリアのブルジョアジーに強制した。コンスタン
ディヌーポリ総主教は他民族を同化する道具と化した。18世紀末および19世紀初頭には、聖職者はギリシャ語によるカリキュラムを備えた数多
くの学校を創設し、またブルガリアの奉神礼を禁じかけるところであった。これらの動きは、独自の民族の文化を保持し独自の国家・民族とし
ての生き残ったブルガリア人に対し、圧迫を加えるものであった。修道院はオスマン帝国支配時代にあって、ブルガリアの言語とブルガリアの
民族意識を保存する手段であった。特に重要な修道院として、アトス山のゾグラフ修道院とヒランダル修道院、ブルガリアのリラ修道院、トロ
ヤン修道院、エトロポレ修道院、ドリャノヴォ修道院、チェレピシュ修道院、ドラガレフスツィ修道院がある。修道士は自らの国の特徴を修道
院において保存する事につとめ、スラヴ語奉神礼を継続し、ブルガリア語文献を保存した。また、修道院に併設された学校を継続し、他の教育
事業を継続、ブルガリア文化の枠組みを維持した。1762年に、ブルガリア南部の町バンスコ出身のヒランダルの聖パイシイ(1722-1773)が、
小さな歴史書を著した。これは近代ブルガリア語で書かれた最初の著述であり、さらに国家の覚醒を呼びかけた最初の書物でもあった。この著
述『スラヴ・ブルガリア人の歴史』においてパイシイは同国人に対し、ギリシャ語・ギリシャ文化への隷属を捨て去るように呼びかけた。パイ
シイに応えた人々の中に、ヴラツァのソフロニイ(1739-1813)、ガブロヴォの修道司祭スピリドン、修道司祭イオアキム・カルチョフスキ(1820
年永眠)、修道司祭キリル・ペイチノヴィチ(1845年永眠)が挙げられる。1820年代初頭に、ブルガリアにおける幾つかの教区で、ギリシャ人
聖職者の優越性に対する不満が発火した。1850年になってはじめて、ブルガリア人はギリシャ人聖職者達に対して目的ある係争を始め、何人か
の主教たちをブルガリア人に代える事を要求した。このときまでに、ブルガリア人聖職者達は気付いた。すなわち、オスマン帝国におけるブル
ガリア人の権利を求めるこれ以上の闘争は、コンスタンディヌーポリ総主教庁からの自治正教会位を得るよう努めぬ限りは奏功しないというこ
とである。オスマン帝国は国籍を宗教によってアイデンティファイしており、ブルガリア人は正教徒であったため、オスマン帝国は彼らを「ル
ーム・ミッレト」の一部、つまりはギリシャ人と看做していた。ブルガリアの学校と奉神礼を獲得するためには、ブルガリア人が独立した教会
機構を獲得する必要があった。1860年代を通じ、ネオフィト・ボズヴェリとイラリオン・マカリオポルスキに指導されるブルガリア人達と、ギ
リシャ人達の間での係争は激しくなった。この年代の終わりに、ブルガリア人主教達は大半のギリシャ人聖職者を追放し、北部ブルガリアの大
半、およびトラキア、マケドニアの北部は事実上総主教区から脱却した。1870年2月28日、スルタン公布の勅令(firman)により、オスマン帝
国政府はブルガリア総主教庁をブルガリアのエクザルフ教区(Bulgarian Exarchate)の名の下に回復した。当初のエクザルフ教区
は、現代北部ブルガリア(モエシア)、アドリアノープル州を除くトラキア、北東マケドニアに広がっていた。1874年に、スコピエ教区とオフリ
ド教区の圧倒的多数のキリスト教徒がエクザルフ
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211 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 20:18:56.77 ID:MR8j4oUV
教区へ参加する意向を住民投票によって示すと(スコピエ: 91%、オフリド: 97%)、ブルガリアのエクザルフ教区はヴァルダルスカ・マケドニ
ア(北部マケドニア)、ピリン・マケドニアの全てをも管轄するようになった。ブルガリアのエクザルフ教区は南マケドニアの一部、アドリアノ
ープル州の副主教達によっても部分的に代表されていた。このようにして、エクザルフ教区の境界は、オスマン帝国における全てのブルガリア
の領域を含むこととなった。コンスタンディヌーポリ総主教庁はこうした変化に対して反対し、即座にブルガリアのエクザルフ教区を分離派と
断じてその追随者に異端宣告を行った。最初のブルガリアエクザルフであったアンティム1世は、1872年2月、エクザルフ教区の聖シノドに
よって選出された。彼はオスマン帝国政府から突如として露土戦争の勃発後の1877年4月24日に解任され、アンカラに流刑に処された。後継
となったイオシフ1世は、ブルガリア公国、すなわち東部ルメリア、マケドニア、アドリアノープル州における、教会・学校の展開を図った。
1885年、タルノヴォ憲法により、ブルガリア正教会は公式に公国の国教と定められた。バルカン戦争の前夜には、マケドニアおよびアドリアノ
ープル州において、ブルガリアエクザルフ教区には7つの主教区、1218の教会、1212人の教区司祭、64の修道院、202の小聖堂があり、1373
の学校に、2266人の教師、78854人の児童が居た。第一次世界大戦後、平和条約により、ブルガリアのエクザルフ教区はそのマケドニア、エー
ゲ海沿いのトラキアにおける教区を失った。1913年、エクザルフイオシフ1世は座所をイスタンブルからソフィアに移した。イオシフ1世が
1915年に永眠してから、ブルガリア正教会は30年間、自身の首座を選ぶ事が出来なかった。ブルガリア総主教座の回復とブルガリア教会の首
座の選出のための環境は第二次世界大戦後に整えられた。1945年には教会分裂が解かれ、コンスタンディヌーポリ総主教庁はブルガリア教会の
独立正教会位を承認した。1950年には、聖シノドが総主教座の復活に向けた新規則を採択し、1953年にはプロヴディフ府主教キリルがブルガリ
ア総主教に選ばれた。キリル総主教が1971年に永眠すると、教会はロヴェチ府主教マクシムを後任に選出し、マクシムがこんにちまでブルガ
リア総主教の任にある。共産主義政権時代(1944-89)、政権は教会を破壊しようとするよりはコントロール下に置こうとした。戦後すぐの数年
間は教会指導者にとって不安定であった。1944年から1947年までの間、教会からは結婚・離婚・生死証明書の発行その他といった、行政機構と
機密の両方に係る問題に対する管轄権が奪われた。学校カリキュラムからは、正教要理と教会史の学習が削られた。反宗教プロパガンダが展開
され、幾人かの司祭は迫害を受けた。1947年から1949年までにかけて、教会に対して脅迫的なキャンペーンが高まった。ボリス主教は暗殺され、
リラ修道院の修道院長カリストラトは投獄され、他にも多くの聖職者が暗殺されるか国家反逆罪の嫌疑を掛けられた。やがて共産主義者は体制
支持を拒絶する全ての聖職者を罷免した。1948年に出された反共産主義ととれる本の共著者であったエクザルフ、ステファンは追放された。こ
の頃から1989年にソ連が解体し共産主義が崩壊するまで、ブルガリア正教会とブルガリア共産党は近しい関係を持ちつつ共存し、互いに支え
あってきた。共産党は1953年5月にエクザルフ教区が総主教区に昇格するに際して支援を行った。1970年にはエクザルフ教区(第一次世界大
戦後までの管轄区を含む)が、現代ブルガリアに加えてマケドニアとトラキアを含んでいた事を想起させる記念式典が行われた。こんにち、他
の独立正教会と同様に、ブルガリア正教会はマケドニア正教会の独立正教会位を承認していない。モスクワ総主教(モスクワそうしゅきょう)
は、ロシアの独立した正教会であるロシア正教会の長たる総主教。正式の称号はモスクワおよび全ロシアの総主教である。現在のモスクワ総主
教はキリル1世である(2009年2月1日より)。ロシア語:Патриарх Московский и всея Руси英語:Patriarch
of Moscow and All Russiaロシア正教会と海外に展開するロシア正教会系の教区を管掌する他、ロシア正教会を母教会とする自治教会で新たな
首座主教が選立された際に、これを承認する。ロシアの正教会は、1448年以降、事実上コンスタンディヌーポリ総主教庁から独立していたが、
その頂点である首座主教は従来通り、モスクワ府主教の位階を有すに止まっていた。1589年になって、モスクワ大公国の実権を握っていた摂政
ボリス・ゴドゥノフはロシア教会の公式の独立を望み、コンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世、お
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213 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 20:29:39.61 ID:MR8j4oUV
よび他の3人の総主教(アレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、アレクサンドリア総主教)の認可を取った。そのことにより、ロシ
ア正教会は独立した正教会と認められ、その頂点にはモスクワ総主教がおかれた。1721年、教会を統制する事を意図したツァーリ:ピョートル
1世によって総主教座はいったん廃止されたが、ニコライ2世のもとで総主教座復活が模索され、ロシア革命直後の1917年に復活した。しか
し1925年のティーホン総主教の永眠後1943年までの間、今度はソビエト連邦政府による宗教弾圧政策の一環としてまたしても後任の総主教が
選立されない事態を迎えた。1943年になってようやく一定程度の宥和策に転じた当局から総主教の選立が許可された。これまでの総主教のうち
有名な者には、17世紀初頭の動乱時代にモスクワに侵攻してきたポーランド人に対して祝福を与える事を拒んだゲルモゲン、同じく17世紀初
頭のフィラレート(ミハイル・ロマノフの父)、17世紀後半に正教会を結果として分裂させたニーコン、ボリシェヴィキによるロシア革命時に
致命した聖ティーホンがいる。ロシア語名ではなく、教会スラヴ語の再建音を用いて記述する。例えばИосифはヨシフ(ロシア語名転写)
ではなくイオシフ(教会スラヴ語再建音)として記述する。ロシア正教会においても日本正教会においても、日常的に奉神礼において用いられ
るのは教会スラヴ語読み・教会スラヴ語風転写だからである。括弧内は在位年。古儀式派の流れを汲むロシア古正教会(Русская дре
влеправославная церковь)において、2002年5月9日にアレクサンドル大主教が総主教の座に着いた。現在、ロシア
には2人の総主教が並立している。ロシア古正教会が正統性を認めるモスクワ総主教ロシア古正教会が正統性を認める総主教はイオフ (1589
年 - 1605年)からイオシフ (1642年 - 1652年)までであり、ニーコン (1652年 - 1658年)以降の総主教を正統と認めない。ウクライナ正教会
(モスクワ総主教庁系、ウクライナ語: Укра?нська Православна Церква)とは、ウクライナにおける正教会の一つ。
「自治正教会の広い権を有する自主管理教会」として、ロシア正教会モスクワ総主教庁と関係を保持している。ただし、関係を保持してはいる
ものの、本項で扱っている教会はロシア正教会とは呼ばれない。ロシア連邦政府も同教会につきウクライナ正教会と呼んでいる。二つの主要な
「ウクライナ正教会」を区別するため、本項で説明しているウクライナ正教会は「ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)」と表記される事が
多い。しかしながら教会側は、自身がウクライナにおいて唯一の教会法上の合法正教会であり、ウクライナ土着の正教会であり、他に教会法上
で合法な競合関係にある正教会は存在しないと強く主張することから、自身の名称を単に「ウクライナ正教会」であると主張している。ウクラ
イナの国家宗教委員会では、「ウクライナ正教会」と登録されている。公式にロシア正教会所属のウクライナのエクザルフ教区[9]ウクライナ正
教会は自らをモスクワ総主教庁下のウクライナ総主教代理教区であったと同時にキエフ(キイウ)及びウクライナにおける全ルーシの正教会の
後裔であると捉えており、このことから、ウラジーミル1世(ヴォロディームィル1世)による988年のルーシの洗礼からの直接の系譜を主張
している。前任の府主教ヴォロディームィル(Volodymyr (Sabodan))は、「キエフ及び全ウクライナの府主教」の称号を以て、ウクライナ正教
会の首座主教として1992年に着座し、2014年7月に永眠。オヌフリイ(ベレゾフシキイ)が後任として2014年8月に着座した。ウクライナ
正教会はウクライナでは現在、正教会世界に於いて唯一の教会法上の合法性を満たしている正教会であり、全世界の他の正教会とフル・コミュ
ニオン関係にある。主要な正教会の建物の多数を保持し、ウクライナの東方と南方で優勢である。キエフ府主教の公式な座所はキエフにあるキ
エフ・ペチェールシク大修道院である。ウクライナ正教会には現在、42の主教区があり、58人の主教(主教区を管掌する者が42人、補佐が12
人、引退した者が4人。その位は府主教10人、大主教21人、主教26人。内訳合計が58人にならない理由は不明)がおり、8516人の司祭と
443人の輔祭がいる。日本ハリストス正教会(にほんハリストスせいきょうかい)は、キリスト教の教会。自治独立が認められている正教会所
属教会のひとつである。ハリストスは「キリスト」の意(こうした独自の表記・翻訳については後述する)。英語表記は"Orthodox Church in
Japan"である(略号はOCJ)。通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。1970年以前、自治正教会とな
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19 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 20:52:53.20 ID:MR8j4oUV
っていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた。正教会は一カ国に一つの教
会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、こ
れら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している。正教会の教義や、全正教会に共通する特徴について
は「正教会」を参照19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらさ
れ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、
豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財。本項では日本ハリストス正教会で用いられている用語を断りなく用いることがある。
東京大主教区(大主教座:東京)、東日本主教区(主教座:仙台市)、西日本主教区(主教座:京都市)の3主教区からなる。東京大主教座が同
時に日本府主教座を兼ね、日本教会のいわば本山にあたる。2012年9月現在の「東京の大主教・全日本の府主教」はダニイル主代郁夫[6]。「仙
台の大主教」はセラフィム辻永昇。「西日本の主教」は全日本の府主教ダニイル主代郁夫が兼任している。日本ハリストス正教会は1970年以降、
ロシア正教会の庇護下に自治正教会の地位にある。これは同じくロシア正教会の系列にあるウクライナ正教会とほぼ同格とされる地位であり、
首座主教たる府主教の承認をモスクワ総主教が行うほかは、国内教会の指導・管轄につき、完全な自律・自治を行っており、財政面でもロシア
正教会から完全に独立している。奉神礼での祈祷文はごく一部の例外(主教の祝福に対する答礼の言葉「イス・ポラ・エティ・デスポタ:ギリシ
ャ語」や、一部の教会スラヴ語の聖歌など)を除き日本語である。奉神礼においては日本正教会訳聖書という独自の翻訳聖書を用いる(後述)。
神品(正教会の聖職者)のほとんどは日本人であり、日本の正教会はロシアから宣教されたにもかかわらず、その歴史の当初から現在に至るま
で一貫して、ロシア人神品の数は少ない。教会の分布を見ると、日本正教会の草創期に仙台の人士が活躍したこともあって、東北太平洋岸海運
の拠点港である石巻の流通関連地域(河川流通:北上川流域、海運:三陸海岸)を中心とした宮城県北部から岩手県南部に多くの教会がある。ま
た、北関東の両毛地区にもやや密集地がある。全体的には東日本の太平洋側に多くの教会が分布しているが、北は北海道、南は鹿児島に至るま
で全国的にも展開している。現在、聖堂ないし会堂を持たない教会も含めて、日本全国に60あまりの教会がある。東京都の駒込と目黒とに、
モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエの聖堂があるが、これはロシア正教会に直属するものであり、日本正教会所属の教会ではない。駐日ポドヴ
ォリエではロシア系参祷者が多いこともあり奉神礼は教会スラヴ語を中心に行なわれているが、若干の日本人信徒のために日本語も一部で用い
られる。ロシア系正教会の伝統を継承しているため、日本正教会の聖堂内には長椅子がほとんど使用されていない。身体障害等の事情がない限
り、正教会の奉神礼は復活を象徴する姿勢として立って行うことが基本であるためである。長椅子ではない椅子が若干数置いてあったり壁際に
長椅子がわずかに置かれていたりすることもあるが、多くは高齢者のためのものであり、参祷者が多く聖堂が混雑する際にはほとんどが片付け
られるか折りたたまれるかされることが多い。一方、ギリシャ系正教会やアメリカの正教会には椅子や長椅子が置かれていることが多い(例:
ギリシャ・テッサロニキの聖デメトリオス(ディミトリオス)聖堂)。しかしこのような事例でも、本格的なイコノスタシスがそなえられている
ことが多いために、ほとんどの場合で西方教会の内観とはかなり異なった情景を呈していることに注意が必要である。また長椅子が置いてある
地域の教会であっても、西方教会よりは圧倒的に参祷者が起立姿勢を維持する時間は長い。稀にロシア系正教会、その流れを汲む日本正教会の
内観に、長椅子とカトリック教会のような祭壇を設定し、西方教会とほとんど異ならない情景描写を行う各種映像・画像媒体(映画・漫画など)
があるが、こうした表現には初歩的な考証が欠けていると言える。日本正教会やアメリカ正教会など、ロシア系の伝統を引く正教会の聖堂を描
写するに際しては、西方教会と大きく異なる内観を多くの正教会の聖堂が有していることに留意して考証を行う必要がある。明治時代亜使徒聖
ニコライ。パナギアを首からさげ、クロブークを被り、リヤサを着
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21 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 21:10:53.12 ID:MR8j4oUV
用している。明治時代の日本正教会は、日本に正教を伝道したニコライ・カサートキンに多くを負っている。奇しくもニコライ・カサートキンは
明治最後の年である明治45年(1912年)に永眠しており、明治時代の日本正教会は常にニコライ・カサートキンと共にあったことになる。伝
道の基本方針と日本の情況当初からニコライは「日本人への伝道」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考え
はなかった。ニコライは日本語を熱心に学び、日本人を対象とする布教を積極的に行った。派遣した19世紀後半、および20世紀初頭の開明的
なロシア正教会上層部もまた同様の考えであり、「在日ロシア人のための教会」を建設するのではなく「日本人による正教会」を建てることが目
指されることとなった。この基本方針はその後のニコライの様々な行動に一貫している。日本語を奉神礼に用いる現在の日本ハリストス正教会
の姿は、現地の言語を大事にする正教会の伝統と、ニコライや日本人伝教者ら伝道に携わった人々・機関の方針の延長線上に位置づけられるも
のであり、正教会の古代から近世に至るまでの伝統が近現代において実を結ぶ過程であったといえる。明治時代の日本における、西欧文明・近
代化への学習熱を利用する事の出来たキリスト教他教派(西方教会)に比べ、文明を学ぶ対象とはされていなかったロシアから来たニコライと、
近代合理主義の影響の薄い正教会には大きなハンデが課されており(現在でこそ近代合理主義の見直しの観点から正教が評価される機会もある
が、当時はこうした事情はハンデであった)、本国ロシアの無理解から支援も滞りがちであったが、伝道にあたってはニコライが育成した日本人
信徒が主体となって教会を支え続けた。1868年(明治元年)、箱館(北海道函館市)で三人の日本人が信徒になったのがはじめ。箱館は当時外国人
に公開されていた港のひとつであり、帝政ロシアの領事館が置かれていた。キリスト教はまだ禁止されていたが、領事館の附属礼拝堂付の司祭
であるニコライを沢辺琢磨・酒井篤礼・浦野太蔵の三人が秘密裡に訪れ、1868年、教理を学び洗礼を受けるに至った(後に沢辺は初の日本人司祭
となり、酒井も司祭になる。)。最初の日本人信徒のうち、沢辺琢磨はニコライのもとを訪れた当初、「『異国の邪教を広める者』を斬ろう」とし
ていたようである。だがニコライの説諭を聞き、正教の教えを受けるに及んで正教信仰を受け入れるに至った。この経緯を使徒パウロ(スラヴ
語読み:パウェル)になぞらえて「パウェル」の聖名を与えられた。函館でしばらく宣教を行っていたが東京での宣教を切望していたニコライ
は、のちに修道司祭アナトリイが函館に着任すると函館をアナトリイに任せ、上京。1872年に神田駿河台の土地2300坪を買い、宣教の拠点と
した。1874年5月には布教会議を東京で開催する。神田には神学校を設けた。1880年にはニコライは主教に叙聖され、ここからニコライは司
祭・輔祭をロシア正教会から派遣される主教を待たずに叙聖することができるようになり、日本人神品増加の環境が整った。1891年には大聖堂
(東京復活大聖堂 ・通称:ニコライ堂)を建設し、ここを布教の根拠とした。布教範囲は全国に及んだが、東北地方での浸透が著しい。ニコラ
イは日本の寺院の檀家制度のような、一村まるごとを改宗させるという手法で、着実に布教を進めていった。出版事業に重きを置いたニコライ
により、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国したイリナ山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていっ
た。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師と
して聖歌の普及に努めた。ヤコフ・チハイの弟子には小原甲三郎、インノケンティ金須嘉之進(きす・よしのしん)、東海林重吉などがあり、ヤ
コフ・チハイとともに聖歌指揮・聖歌譜の翻訳・作曲に従事した。同時期に活躍した聖歌指揮者としてディミトリィ・リオフスキィがいる。正
教会は急速に教勢を拡大していった。明治時代、ロシア人の伝道従事者が少なかった(明治時代一貫して、ロシア人神品は日本全国でも4人を
超えることはなかった)ことを考えれば、驚異的な宣教の成果であった。最盛期には100人を超えていた日本人伝教者(神品ではないが専従職の
伝道担当者)を始めとする日本人教役者が伝道の核を担ってきたと聖ニコライは1910年に述べている。同時代のロシア人司祭からも1880年代
のペテルブルク主教区宣教委員会総会で、日本での伝道成果は日本人伝教者達によるものであるとする報告がなされていた。大津事件にみられ
るように日本の対露感情は悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日
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23 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 21:36:17.97 ID:MR8j4oUV
本正教会もまた各地で迫害を受けることになる。大津事件の際、ニコライ主教は襲撃されたロシア皇太子(のちのニコライ2世)を輔祭河村伊
蔵を伴って見舞い、ロシア皇太子の対日感情の緩和に努め、この危機にあたって日本と戦争しないようにくれぐれも父皇帝に伝えるよう願った。
ニコライが日本政府内に多くの知己を得ていたことと併せて、このことはロシア人であるにもかかわらず個人としてのニコライは日本政府から
おおむね信頼を得る結果となった。しかしながら日本正教会全体の状況の厳しさは変わらなかった。日本人正教徒達は各地でロシア帝国のスパ
イであるとの嫌疑をかけられ、住居からの追放や、神父への襲撃、墓石や教会建物の破壊行為が各地で起こった。正教側は、正教はロシア専有
の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強
かった。1894年にギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教と日本人信徒ともに奉神礼を行った事を、「(ギリシャ正教の
大主教とニコライ主教と)わが日本正教会信徒が一堂の内にて同一の信仰を保ち、同一の奉神礼を執行し、一の主なる神を讃美し、わが正教会
の信仰と奉神礼とはギリシャ正教会のそれと同一であって、世界到るところの正教会、聖にして公たる使徒伝来の基督教会の一枝であることを
如実に証明し得た」と記し、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した長司祭三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教
会が置かれた状況が垣間見える。1904年に日露戦争開戦。この時ニコライは日本人信徒達から懇請を受け、在日ロシア人達による共に帰国する
ことの勧めを断って日本にとどまり、苦難の下にあった日本人正教徒達を激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の惨敗の知ら
せと停滞する祖国:ロシア帝国の姿に、自らの日記において苦悩を吐露し、ニコライ堂の奉神礼からも主教祈祷から退いているが[19]、それで
もニコライは信徒達には「諸君は皇軍のために祈れ」と指導し、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通すことになる。
他方、日本正教会はロシア人捕虜のケアを行い、「日本人のための日本正教会」が「日本人のためだけの日本正教会」ではないことを行動で示し
た。だがニコライが個人的な信頼を日本政府内で得ていようと、そして日本正教会が日本政府と協力してロシア人捕虜のケアを行おうと、反露
的な機運は日本正教会にも向けられていった。日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂とその関連施設も暴徒に襲撃されるところであり、あわ
や火をかけられるところであった。この時は戒厳令の下に出動した近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れた。こうした逆境にもかかわら
ず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15
名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあってカトリック教会に次ぐ規模であった。明治最後の年、1912年に大主教ニコライは永眠、
76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花輪が与えられた。外国人宣教師の葬儀に際して時の天皇から花輪が与えられるのは異例のことで
あった。昭和時代は世界大戦との関連で日本の諸教会が苦難を経験しており、日本正教会もその例外ではなかった。しかし、日露戦争に代表さ
れる日露関係の悪化と、日本における対露感情の悪化、および無神論を標榜するロシア革命の勃発、そして母教会であるロシア正教会に大規模
な弾圧を加えるソ連の成立は、他教派より相対的に長い20世紀後半までの苦難という結果を日本正教会にもたらした。ロシア革命による混乱
は日本正教会にとどまらず、ロシア正教会の影響下にあった世界中の正教会に及び、その残滓は今も世界中の正教会の相互関係における課題を
残している。このような苦難の時代を経つつも、日本における正教信仰は途絶える事は無かった。無神論を標榜するボリシェヴィキによって
1917年にロシア革命が勃発しソ連が成立すると、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約以降、数次にわたって更新されてきた日露協約
にみられる極めて短い日露協商の時代は終わりを告げた。これ以降、1991年のソ連崩壊に至るまで、日本正教会は「反露感情」のみならず「反
共感情」にもさらされていくことになる。正教会は実際には共産主義国家から大弾圧を受けている被害者であり、共産主義者はこぞって正教会
の「後進性」を批判しており正教会に一切の好意を持っていなかったにもかかわらず、日本正教会及びその関係者は「親露=容共」というあら
ぬ嫌疑をかけられてしまうこととなった。この困難な時期に最初に直面したのは大主
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24 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 21:53:25.05 ID:MR8j4oUV
教ニコライの後継者であったセルギイ・チホミーロフ主教(のち府主教)であった。ロシア正教会はソ連では大規模な弾圧を受けており、ソロヴ
ェツキー諸島の修道院群はレーニンの命令で強制収容所に転用され、救世主ハリストス大聖堂は1931年にスターリンの命令でダイナマイト爆
破された。日本正教会の初代京都主教を務めたペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで
知られている。1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑
されたが、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは
投獄された[26]。1937年と1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。これほどの弾圧がロシア正教会に加えられつつも日本における
「ロシア=ソ連」という通俗的観念はぬぐいがたいものがあり、共産主義政権による被害者である正教会が通俗的には共産主義者の仲間と見な
されてしまうという、極めて理不尽な情況が生まれた。またロシア革命以降、ロシア正教会は共産主義政権との対峙・交渉、及び自教会の維持
のみで精一杯となり、他国の正教会を支援する余裕を失い、欧米をはじめとした各地の教会組織に混乱が起こった。他国に起こったこうした事
情は日本とても例外ではなく、母教会であるロシア正教会からの日本正教会への財政的支援も消滅した。この時点での日本正教会はいまだ財政
的にすぐに自立出来る状態にはなく、給与を支払うことができなくなった多くの伝教者を解雇せざるを得なくなり、教勢は衰えた。一例として、
アレクセイ河野次郎が熱心に支援し、その息子ペトル河野通勢が長野在住時代に通っていた長野ハリストス正教会復活会堂が1921年に閉鎖さ
れた事が挙げられる。なお、ロシア革命から日本に逃れてきた多くの白系ロシア人が日本正教会での信仰生活に加わり、教会によっては2009
年現在に至るまで、一定の在日ロシア人系コミュニティを教会内に形成している。特に東京のニコライ堂と、神戸ハリストス正教会にその傾向
が顕著である。日露戦争およびロシア革命の余震がまだ大きく続く中、日本正教会は1923年、関東大震災でニコライ堂が崩落し首都内のいく
つかの聖堂も失うという極めて大きな打撃を被った。関東大震災で散逸もしくは焼失したとみられる史料も多く(大震災前のニコライ堂の、コ
ンドルによる修正前のミハイル・シチュールポフによる原設計図など)、その損失は測り知れない。なお、大震災の惨状についてはペトル河野通
勢による、ニコライ堂も含めたスケッチ・銅版画が残されている。これほどの打撃にもかかわらず、セルギイ・チホミーロフ大主教(役職当時)
はよく日本正教会を支え、1929年、ニコライ堂を再建した。再建にはセルギイ大主教の全国行脚の甲斐もあってか千島から台湾に至るまでの信
者達からの多額の献金があり、これ以降、日本正教会が財政的に自立していく契機の一つとなった。この時、海外の正教会からもニコライ堂の
再建に対して多額の献金があったこと、国内においては信徒達以外からもニコライ堂の文化的価値に共鳴した異教徒たちからの少なくない献金
があったことが、セルギイ・チホミーロフにより言及されている。大聖堂の成聖式には全国から信者や関係者が集まり、3千人以上が集まった
と伝えられている。参加した教役者の数は、大主教セルギイとハルビンの主教ネストルを含み総勢39名であったと記録されている。震災後の
東京復興委員会代表となった中川望(元大阪府知事)も式典に参加していたが、彼は正教徒であった。また聖公会の主教ジョン・マキム博士も
祭服着用の上で参加した。ロシア革命以降停滞を余儀なくされていた日本正教会に対し、神学教育等の面で協力していたのは日本聖公会であっ
た。20世紀前半、日本正教会と日本聖公会の間には比較的友好的な協力関係があった。「両教会とも、ローマ教皇の教皇首位権に否定的でありつ
つ、ある程度伝統的な教会である」「ロマノフ朝とハノーヴァー朝の縁戚関係」等の要因により、世界的に正教会と聖公会の合同への機運が高ま
っていたことも背景にあった。戦後すぐの時期まで両教会の友好的関係は続いていく。しかしながら20世紀後半には世界的な両教会の合同の
気運も消滅し、日本にあっても両教会の協力関係はその後継続せず、2009年現在では両教会の関係は特に深いものではなくなっている。1931
年、大主教セルギイは府主教に昇叙された。だがこのころから、日本正教会にはある動揺が広がりつつあった。共産主義政権の下で弾圧されそ
の影響下にあるロシア正教会の意思・決定の正当性およびその真贋に疑義を持つ人々は少なくない中、モスクワ


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