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名無しさん@お腹いっぱい。
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177 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 00:26:00.66 ID:KdhnUHUt
658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。
703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。
717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄ムも、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。
なかでも玄ムは興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。
徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。
平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、
また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。
中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。
東晋代に、『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。北魏では、法聡が四分律宗を開宗した。
その後、地論宗に属する慧光(468年 - 537年)が律宗の勢力を拡張した。
唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。
道宣の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。
一方、法励(569年 - 635年)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子、懐素(625年 - 698年)は、法励の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。
その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
天平勝宝5年(753年)、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。
後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いている。
鑑真が伝えたのは『四分律』によるものであったが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は『十誦律』を重んじた(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、
空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。
また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
平安時代末期から鎌倉時代には実範・明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236年)覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。
後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。
更に京都泉涌寺の俊?が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊?の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。
この3派の革新派を「新義律」と呼称して、それ以前の「古義律」と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、
中世には禅宗と律宗を合わせて「禅律」とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900年(明治33年)律宗として独立した。
中国において、大乗仏典のひとつ『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派である。
開祖は杜順(557年-640年)、第2祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承されている。
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178 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 00:32:24.73 ID:KdhnUHUt
この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。
また朝鮮半島(古代新羅)にも伝わり、義湘(ウィサン)によって広められる。
日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。
金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。
鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされている。法相宗と並ぶ、南都六宗の一つで、「十三宗五十六派」の一つである。
華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。
東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、日本仏教の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった。
時代的にも地域的にも広範なので、様々な変容がある。
華厳思想の中心になるのは、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)無限に重なりあっているという考え方(重々無尽の縁起)である。
この実相を4つの見方・四法界に分ける。我々の通常のものの見方は事法界で、無自性・空の見方の理法界は仏の世界である。
この両者を止揚した無自性・空の世界と具体的個物や現象が妨げあわず共存する理事無礙法界が、修行をすると顕れるが、これは天台の考え方で理と事を分けている点が不徹底である。
この分裂をなくせば、最後に、「理」すなわち「無自性・空」も消え去り、ただ事物と事物が融通無碍に共存する事々無礙法界という仏の見方に到達し、これが本来の真実一如の世界である。
また、華厳では仏の立場になって見るので、三性説もまた唯識とは逆に、仏の側から順に円成実性、依他起性、遍計所執性と説かれる。
仏になることをゴールと考えるのではなく、最初から仏の立場に自分を置いて考え、行動することを求めるのが華厳思想であるから、華厳経の一部の十地品に説かれるとおり、
菩薩初地で信不退転となれば、あとは菩薩第十地までは自ずから到達するはずで、結局菩薩の初心にあるべき金剛の信が決定的に重要だと考える。
性起説仏性についての考え方では天台宗が性具説を説き凡夫が次第に修行によって自らに十分備わっていない外来の仏性に救いとられて、
目覚めさせられて行くと説くのに対し、華厳宗では性起説を説き、もともと衆生には円満な仏性が備わっているという如来蔵の考え方をとり、
それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだと考える。鎌田茂雄はこの考え方が道元の仏性観、修行観(修証一味)に影響していると指摘している。
しかし、これは、たぶんに華厳宗側から見た見方で、公正とはいえず、これからの検討が必要であろう。華厳経の位置づけ
天台宗の教相判釈(経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・五時八教の教判(天台大師智による)では、華厳経は最初に説かれ、
仏のさとったままの言葉を記したもので、凡夫には理解しがたいものとしている。
華厳宗では賢首大師法蔵が華厳五教章のなかで五教十宗判の教相判釈を行い、華厳経および華厳宗を最高の教え(別教一乗)と位置づけ、そもそも仏が悟った一乗真実は、
理として頭で解する必要はなく、ただ肉体で体験すべきものだと考える。
よって天台宗は、華厳宗やその影響の下に成立した禅宗の立場からは、心身不可分ということが不徹底な、学問仏教であるという批判がなされる。
一方天台宗側からは、この華厳宗の立場は、学問的に理で解するという方便がないと凡夫には入門しがたく、
その意味で華厳宗は現実と遊離しがちな理想論だという反論がなりたつ。
浄土宗(じょうどしゅう)は、日本の仏教宗旨のひとつで、法然を宗祖とする。
本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。
浄土専念宗とも呼ばれる。浄土真宗の別称もある(親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗とは別である)。
承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えをひろめた。
この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故
一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。
「南無阿弥陀仏」は
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179 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 00:39:15.04 ID:KdhnUHUt
阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意。阿弥陀佛の選択によって、浄土宗における念仏はここから始まったと言っても過言ではない。
法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。
日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。
法然在世時の歴史は、法然の生涯を参照。
法然の没後、長老の信空が後継となったものの、証空・弁長・幸西・長西・隆寛・親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
嘉禄3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。
事の発端には、法性寺の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、
『選択本願念仏集』は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。
法然の遺骸は、太秦広隆寺の来迎房円空に託され、1228年(安貞2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。
その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。
すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、
京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として
事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。
だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。
一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷に拠点を築いた。
また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠も下総国匝瑳南条荘を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。
その他、鎌倉にある極楽寺は真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院(鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である
(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、
鎮西派も良忠の死後に第4祖良暁の白旗派の他、名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。
その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。
特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝」の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。
第8祖の聖聡は増上寺を創建し、その孫弟子にあたる愚底は松平親忠に乞われて大樹寺を創建した。
応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575年)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、
諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である徳川家康が江戸幕府を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。
特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けた。元和元年(1615年)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、
知恩院が門跡寺院・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。
これにより浄土宗は幕府の手厚い保護を受けることになる。なお、このとき西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されている。
江戸幕府が倒壊したあと、廃仏毀釈の混乱のなかから養?徹定・福田行誡らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一され、
現在の浄土宗の原型が成立する。第二次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする浄土宗本派が分立するが、
1961年の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、1977年に黒谷浄土宗も復帰した。現在の宗教法人としての「浄土宗」の代表役員は宗務総長、責任役員は内局と呼ばれている。
一方、西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山粟生光明寺) 浄土宗西山
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180 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2016/02/18(木) 00:45:32.00 ID:KdhnUHUt
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際には 、ロシ


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