- 東洋大学ってお前ら的にどんなイメージ?
287 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2016/06/09(木) 20:36:40.97 ID:lgMhg8ps - 学長幹事を 引据えて殴打す 遂に辞表を書かす
幹事室から引摺り出された境野学長と三輪幹事は全く多数学生の為め自由を奪われ、 大講堂の教壇上に引据られ此処で再び乱打された。而して学生等は学長の非を高唱した末 辞職を強要した、学長は止むなく「最初よりの決心に依って辞職すべし」と辞表を書いたが、 学生等は「これでは可けない」と云って更に鉄拳を浴せかけ強要の末遂に 「今日の状況已むを得ざるも と認め最初よりの決心を即時決行本日辞職す境野哲」との 辞表を書かせて漸く学長を放免、続いて三輪幹事には「学長が辞職すれば貴様には モウ用はない」とこれ亦放免された、斯くて学生等は大講堂で凱歌を上げ、 万歳を叫んだ後全学生に対し経過を報告しいずれも思い思いに退散した。 この騒ぎの為め折角姿を見せた教授や講師連もこそこそと帰ってしまい、 授業は丸つぶれとなった、暴風のような騒ぎは午前十時半に 漸く元の静けさに返ったが、三輪幹事は殴打されたあとの痛みで帰宅できず、 幹事室の隣室に横臥し学長は痛さを堪えてすぐ自宅に帰った。 学生廿余名 引致 東洋大学暴動の急報に接し富坂、駒込両警察署から多数の正私服巡査が出張したが それ等の警官隊が同大学に到着した時は既に学長は大講堂に引据られて居て これに対しては警官隊も手の出しようがなかったが外部の方では正私服が 暴れ狂う学生の為め大分殴られて居る、然して、学生中飯田、森、立花外 二十四五名は右両警察署に引致厳重取調べを行って居る。 (『東京朝日新聞』 大正12年6月28日付) 東洋大学が大学昇格を実現したのは、昭和3(1928)年であり、大学令の施行から9年を経過していたが、この昇格が遅れた最大の理由は、供託金を調達することができなかったためであった。 (東洋大学創立百年史編纂委員会 『東洋大学百年史 通史編T』 学校法人東洋大学、1993年)
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