- 【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
535 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/04(火) 12:29:39 ID:jpbluSNp - 『仏教といふのは妙なもんだ』と岡野は考へてゐた。『慈眼で見張れば、湖上の船も難から
救はれるといふ考へなんだ。こんな死んだ金いろの目で』 見るといふことは岡野にとつて、本来、残酷さの一部だつたが、 「遠くひろがる湖面には、 帆影に起る喜悦の波。 払暁の町はかなたに 今花ひらき明るみかける」 などといふ彼の好きなヘルダアリンの詩句も、この千体仏の暗い金の重圧、慈悲による、 見ることによる湖の支配の前に置かれては、たちまち力を喪ふやうに思はれた。 ハイデッガーのいはゆる「実存(エクジステンツ)」の本質は時間性にあり、それは本来 「脱自的」であつて、実存は時間性の「脱自(エクスターゼ)」の中にある、と説かれてゐるが、 エクスターゼは本来、ギリシア語のエクスタテイコン(自己から外へ出てゐる)に発し、 この概念こそ、実存の概念と見合ふものである。つまり実存は、自己から外へ漂ひ出して、 世界へひらかれて現実化され、そこの根源的時間性と一体化するのである。
|
- 【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
536 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/04(火) 12:32:40 ID:jpbluSNp - 全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。
善意や慈善は、必ず人の心に届くのだ。あるときは日光のやうにまつすぐに、あるときは 蜜蜂に運ばれる花粉のやうに、さまざまの迂路をゑがいて。 ヨーロッパの個人主義は悲惨を極め、パリの街頭を、助ける人もなく、よろめき歩く老人の 数の夥しさは彼を怒らせた。『嫁はんは一体何をしとるんや』黒衣の老婆が片手に杖をつき、 片手は建物の壁に縋(すが)つて、口のなかで何事か呟きながら、一歩一歩、定かならぬ歩を 運ぶ有様は、彼には人間世界の終焉と感じられ、その呟く言葉はきつと経文にちがひないと 思はれた。 若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。若さはすべてを補ふから、どんな不自由も 労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの安楽を求めるときは、若さ自体の価値を ないがしろにしてゐるのである。そして若くして年齢のこの逆説を知ることが、人間に必須な 教養といふものだつた。 三島由紀夫「絹と明察」より
|
- 【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
537 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/04(火) 12:34:35 ID:jpbluSNp - その理法を司る駒沢の立場は、時には日照りが望まれてゐるときに雨を降らせ、雨が
乞はれてゐるときは日照りをつづけたりせねばならず、目先だけでは理解されやうもないが、 いつも遠い調和へ目を放つて、そのときの理解をたのしみに暮すほかはなかつた。 サークル活動は風紀を紊(みだ)し、文化的なたのしみは青年を腑抜けにし、その害毒は いづれも年配になればわかることだが、彼は自由の意味もわからぬ年ごろに自由を与へたり することが、自然に反する行ひだと知つてゐた。 彼は無知を弾劾し、忘恩をののしり、この世に正義が行はれなくなつたことを大声で 慨(なげ)いた。いやらしい黴菌が若い者の心に巣喰ひ、美しい情誼を足蹴にかけさせ、 腐敗と怠惰が世界中にはびこり、謙虚が色褪せ、女の股倉が真黒になり、懐疑と反抗が 男の叡智を曇らせ、喰つたものはみんな洟汁と精液になり、勤勉は嘲られ、誠意はそしられ、 嘘の屁と欺瞞のげつぷをところかまはずひり出し、ために健全な母親の乳房も爛れてしまふ。 さういふペストが、つひに駒沢紡績をも犯したのだ。 三島由紀夫「絹と明察」より
|
- 【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
538 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/04(火) 12:35:54 ID:jpbluSNp - あんたらは、はいはいと女子(おなご)の言ふなりになつたわけか。わしはやるべきものと
やらいでええものとを弁へてをつたが、あんたらにはその弁へがつかんのや。自由やと? 平和やと? そないなこと皆女子の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。男まで嚔をして、 風邪を引かんかつてええのや。 駒沢の考へる家族とは、愛などを要せずに、そこに既に在るものだつた。はじめから 一続きの紙に、どうして愛などといふ糊が要るだらうか。 男が自由や平等や平和について語るのは、自らを卑しめるもので、すべて女の原理の借用に すぎぬといふこと。少しでも自尊心のある男なら、自由や平等や平和の反対物、すなはち 服従や権威や戦ひについて語るべきだといふこと。男があんなことを言ひ出したとたんに、 女にしてやられ、女の代弁者として利用されるやうになるといふこと。…… 三島由紀夫「絹と明察」より
|
- 【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
539 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/04(火) 12:37:02 ID:jpbluSNp - かれらも亦、かれらなりの報いを受けてゐる。今かれらは、克ち得た幸福に雀躍(こをどり)して
ゐるけれど、やがてそれが贋ものの宝石であることに気づく時が来るのだ。折角自分の力で 考へるなどといふ怖ろしい負荷を駒沢が代りに負つてやつてゐたのに、今度はかれらが肩に 荷はねばならないのだ。大きな美しい家族から離れ離れになり、孤独と猜疑の苦しみの裡に 生きてゆかなければならない。幸福とはあたかも顔のやうに、人の目からしか正確に 見えないものなのに、そしてそれを保証するために駒沢がゐたのに、かれらはもう自分で 幸福を味はうとして狂気になつた。さうして自分で見るために、ぶつかるのは鏡だけだ。 血の気のない、心のない、冷たい鏡だけ、際限もない鏡、鏡……それだけだ。 『それもええやらう。苦労するだけ苦労したらええ。その先に又、おのづから道がひらけて 来るのや』 そして存分に、悲しさうに吠えるがよい! 人間どもは昔からさうして吠えてきたし、 今後もそのやうに吠えつづけるだらう。だから駒沢は、自分をも含めて、かれらをみな恕す。 三島由紀夫「絹と明察」より
|
- 【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
540 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/04(火) 12:40:20 ID:jpbluSNp - 彼は米国で見た北斎を思ひ浮べたが、北斎は風景ばかりか人間まで怖ろしいほどよく知つてゐた。
それを存分に描いて後世に伝へ、外国人にまで愛された。何といふ相違だらう。駒沢はそれを 知つてゐるといふことを、北斎同様、公然と示したのであるが、一人は栄光にかがやき、 一人はそのために悲境に陥つた。駒沢は画家ではなかつたのだから、その秘密を公言すべきでは なかつたのだ。北斎にしろ広重にしろ、あんなに逆巻く波や噴火する山や横なぐりの雨を描き、 そこに小さく点綴される人間の貧しい重い労働を描き、それをすべて世にも幸福な色彩で 彩つたのだが、駒沢のやつたことも同じで、 『結局お前らはみんな幸福なんや』 と言ひつづけて来たのだつた。色彩は罰せられず、言葉は罰せられるのは何故だらう。 だが今、彼を嘘つきと言ひ、不正直と言ひ、狂人と言ひ、悪徳資本家と言ひ、企業を 私物化した時代おくれの石頭と言つた、すべての人を彼は恕す。 三島由紀夫「絹と明察」より
|
- 【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】
541 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/04(火) 12:56:35 ID:jpbluSNp - かれらの憎悪と、それに触発された駒沢の憎悪が、今はからずも、一会社の枠をこえて、
『四海みな我子やさかいに……』 といふ心境に彼を辿りつかせた。それこそは正に、彼が彦根の署長室から立ち去つてゆく 大槻の白いシャツの背に見出したものだつた。 やがてかれらも、自分で考へ自分で行動することに疲れて、いつの日か駒沢の樹てた美しい 大きな家族のもとへ帰つて来るにちがひない。そここそは故郷であり、そこで死ぬことが 人間の幸福だと気づくだらう。再び人間全部の家長が必要になるだらう。…… 駒沢の伝染(うつ)す死は、必ずしも肉体的な死ばかりではあるまい。岡野の心のほんの 一小部分でもそれに犯されたら、彼の得る利得はただ永久に退屈な利得につらなり、 彼の思想はただ永久に暗い深所の呟きにをはつて、二度とその二つが輝やかしく手を握ることは ないだらう。…… へんな、いつはりのよみがへりの時代がはじまつてゐた。 三島由紀夫「絹と明察」より
|