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名無しさん@お腹いっぱい。
【憲法9条】日本の安全保障のあり方を考える

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【憲法9条】日本の安全保障のあり方を考える
89 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/17(水) 22:54:04.47 ID:Vf3a2DCx
このことは、グロテスクな誇張を敢てすれば、侵略戦争の宣戦布告をする天皇と、絶対非武装平和の国際協調
主義との、対立矛盾を明示せよ、といふのではない。むしろその反対である。もし現憲法の部分的改正によつて、
第九条だけが改正されるならば、日本は楽々と米軍事体制の好餌になり、自立はさらに失はれ、日本の歴史・
伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであらう。われわれは、第一章、第二章の対立矛盾に目を向け、この対立矛盾を
解消することによつて、日本の国防上の権利(第二章)を、民族目的(第一章)に限局させようと努め、その上で
真の自立の平和主義を、はじめて追求しうるのである。従つて、第一章の国体明示の改正なしに、第二章のみの
改正に手をつけることは、国家百年の大計を誤るものであり、第一章改正と第二章改正は、あくまで相互の
バランスの上にあることを忘れてはならない。
さて、何故に第一章の「国体」は、国民の忠誠対象として衰退したか? それはあくまで教育と政策の結果である。

三島由紀夫「問題提起」より
【憲法9条】日本の安全保障のあり方を考える
90 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/17(水) 22:55:41.77 ID:Vf3a2DCx
天皇制は戦後小泉信三的リベラリズムの下に風を除け、この風除けはいつしか天皇制の体質になつて、国民の
忠誠の対象視されることを避けよう避けようといふ一念で生き永らへてきた。古きノスタルジックな忠誠は、
天皇に対する個人的な信愛と敬愛のみにつながれた。国民の、無方向の忠誠の意慾が、その対象たることを
けんめいに避けようとしてゐる対象よりも、別種の対象へ誘導されることは自然である。微笑、友愛、やはらかな
好意、……さういふものなら、戦後天皇制が国民からもつとも歓迎するものであり、この歓迎に応へる装置も
さまざまに作られたが、「忠誠」だけは有難迷惑な贈物であり、これを拒絶する装置も隠密周到にさまざまに
作られた。しかし忠誠を拒絶することは、自ら国体たることを否定する態度に他ならないから、やむなく大衆は
無際限にその忠誠をうけ入れてくれる第九条のはうを現時の国体と考へるにいたつたのも無理はない。尤もこれらの
皇室政策が、天皇御自身の御意向に添うたものである、と私は言はうとしてゐるのではない。事勿れ主義の
官僚群が作つたものであることは明らかである。

三島由紀夫「問題提起」より
【憲法9条】日本の安全保障のあり方を考える
91 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/17(水) 22:56:26.78 ID:Vf3a2DCx
もしかりに、一定妥協して、不十分ながら第一章が日本の「国」とは何ぞやといふことを規定してゐるとしても、
第二章は明らかに、国家超克の人類的理想について述べてゐる。第一章が「国のため」といふ理念を一応掲げて
ゐると仮定しても、第二章が掲げてゐるのは「人類のため」といふ理念である。国民の側から云へば、忠誠対象の
不分明であり、国家の側から云へば、国家意志の不明確である。これらの茫獏たる規定から演繹される国家最高の
理念とは、人命尊重のヒューマニズムに尽き、平時はそれでよいが、ひとたび危機に際会すると、一九七〇年春の
ハイジャック事件のやうに、韓国、北鮮がそれぞれ明白に国家意志を表明したのに、ひとり日本は、人命尊重の
ヒューマニズム以上のものを表明することができず、しかもこのヒューマニズムには存分に偽善が塗り込められる
といふ醜態をさらしたのであつた。

三島由紀夫「問題提起」より
【憲法9条】日本の安全保障のあり方を考える
92 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/17(水) 22:57:00.28 ID:Vf3a2DCx
――さて、逐条的に現憲法の批判に入ると、

 第一条(天皇の地位・国民主権)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、
主権の存する日本国民の総意に基く。
 第二条(皇位の継承)皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを
継承する。

とあるが、第一条と第二条の間には明らかな論理的矛盾がある。すなはち第一条には、「この地位は、主権の
存する日本国民の総意に基く」とあるが、第二条には、「皇位は、世襲のものであつて」とあり、もし「地位」と
「皇位」を同じものとすれば、「主権の存する日本国民の総意に基く」筈のものが、「世襲される」といふのは
可笑しい。世襲は生物学的条件以外の条件なき継承であり、「国民の総意に基く」も「基かぬ」もないのである。

三島由紀夫「問題提起」より
【憲法9条】日本の安全保障のあり方を考える
93 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/17(水) 22:57:35.79 ID:Vf3a2DCx
又、もしかりに一歩ゆづつて、「主権の存する日本国民の総意」なるものを、一代限りでなく、各人累代世襲の
総意とみとめるときは、「世襲」の語との矛盾は大部分除かれるけれども、個人の自由意志を超越したそのやうな
意志に主権が存するならば、それはそもそも近代個人主義の上に成立つ民主主義と矛盾するであらう。又、もし、
「地位」と「皇位」を同じものとせず、「地位」は国民の総意に基づくが、「皇位」は世襲だとするならば、
「象徴としての地位」と「皇位」とを別の概念とせねばならぬ。それならば、世襲の「皇位」についた新らしい
天皇は、即位のたびに、主権者たる「国民の総意」の査察を受けて、その都度、「象徴としての地位」を
認められるか否か、再検討されなければならぬ。しかもその再検討は、そもそも天皇制自体の再検討と等しいから、
ここで新天皇が「象徴としての地位」を否定されれば、必然的に第二条の「世襲」は無意味になる。いはば天皇家は、
お花の師匠や能役者の家と同格になる危険に、たえずさらされてゐることになる。

三島由紀夫「問題提起」より


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