- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
415 :大人の名無しさん[]:2011/06/02(木) 12:17:57.76 ID:Qm3sbPI3 - 私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと興がわかない。
見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に許容しないところのものが、芸術であり スポーツであるが故に許される、といふのが私の興味の焦点だ。やたらに人を打つたりたたいたりすることは、 ボクシングや剣道以外の社会生活では、社会通念上許容されないことである。そこが面白い。 三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より 守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。追つてゆく人間は、知恵を身に つけることができぬ。追つてゆくことで一杯だから。 しかし「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと「若さ」に敗れる日が 来るのである。 三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
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- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
416 :大人の名無しさん[]:2011/06/02(木) 12:18:21.58 ID:Qm3sbPI3 - 一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
俳優とは、極言すれば、時代の個性そのものなのである。 この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。 三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より 現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、私は決して咎めないが、 現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を 発見するやうな人たちのはうを、私はもつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふ のである。なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、その恐怖の 造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスのちがひでしかない。 三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より
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- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
417 :大人の名無しさん[]:2011/06/02(木) 12:18:57.00 ID:Qm3sbPI3 - すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、たくさんの船虫に
蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、風雅な住ひを飾るのだ。 俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、観客席のはうへ顔を向けて ゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。 三島由紀夫「俳優といふ素材」より 大体、適度な運動などといふものは、甘い考へであつて、運動をやるなら、少し過激に、少し無理にやらなければ、 運動をやる意味がないのである。 完全な自由といふものも退屈なものである。 三島由紀夫「三島由紀夫の生活ダイジェスト」より 犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。ぼくら小説家は、 いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。 映画俳優は極度にオブジェである。 映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。 三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より
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- 三島由紀夫VS太宰治
715 :大人の名無しさん[]:2011/06/02(木) 12:45:13.13 ID:Qm3sbPI3 - 一人の作家を評価するのに、彼がビッコだからとか、マゾヒストだからとか、さういふものを前提にした評論は
一番つまらない。精神分析の本を一二冊読めば、何かのコムプレックスで作家の全作品を解明するのは易々たる業で、 子供でもできることである。 コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。踏台を蹴飛ばせば万事 をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやればおしまひだ。……作家が書きつづけるのは、 生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を 生かしてゐるのだが、これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで 彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。踏台が果してゐるのは いかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさないといふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることで あるが、自殺の目的に照らせば、明らかに彼の意志に反したことである。 三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より
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- 三島由紀夫VS太宰治
716 :大人の名無しさん[]:2011/06/02(木) 12:45:41.83 ID:Qm3sbPI3 - あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、別居し、離婚した。
(中略) それぞれの分野が、八ちまたの八方へ別れ去つたのである。 かうして、めいめいの孤独が純粋性を追求した結果どうなつたか? あとに残つたのは、エリオットのいはゆる「荒地」、それだけだ。 (中略) 氷つた孤独を通過して来たあとの各芸術ジャンルは、もう二度と、あんな生あたたかい親しみ合ひを持つことは できない。 今後来るべき交流と綜合は、氷のやうな交流で、氷河的綜合にちがひない。 今ここに、かりにアヴァン・ギャルドといふ名を借りて、舞踊、音楽、映画、絵画、演劇、の各ジャンルが、 一堂に会して展観される。人はアヴァン・ギャルドなどといふ名にとらはれる必要はない。ここに二十世紀後半の 芸術の宿命的傾向を見ればそれで足りる。それは宿命であつて、今ふんぞり返つてゐる古い芸術も、畢竟この道を 辿らねばならないのだ。 そこで、純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。 三島由紀夫「純粋とは」より
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