- 三島由紀夫VS太宰治
682 :大人の名無しさん[]:2011/05/02(月) 11:22:05.08 ID:D8IrDI1M - キリスト像があんなにアバラが出て痩せこけてゐるのは、人間が精神を視覚化するときに、なるたけ肉体的要素を
払拭した肉体を想像する傾きがあるからであらう。その反対でバッカス像は必ず肥つてゐる。それは快楽と肉と 衝動の象徴だからである。かうした象徴は世間の常識に深く入つてゐる。 肉体的な逞ましさと精神美とは絶対に牴触するといふ信念は広く流布してゐる。インドの苦行者のやうな 骨だらけの体を、日本人は一種のアジア的感受性から、尊崇する傾きがある。 象徴や、世間の通念はそれでいい。しかし御当人に何が起るかといふ問題である。人間の肉体と精神は、 象徴のやうに止つてゐないで、生々流転してゐる。肉体と精神のバランスが崩れると、バランスの勝つたはうが 負けたはうをだんだん喰ひつぶして行くのである。痩せた人間は知的になりすぎ、肥つた人間は衝動的になりすぎる。 現代文明の不幸は、悉くこのバランスから起つてゐる。 三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
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683 :大人の名無しさん[]:2011/05/02(月) 11:22:30.67 ID:D8IrDI1M - 文士の例でいへば、面白いことに、戦後の破滅型の小説家、坂口安吾や田中英光の人並外れた巨躯はもとより、
太宰治もかなり頑丈な長身であつた。三人とも体にはかなり自信があつたので、肉体蔑視の思想にとらはれ、 自分たちのかなり頑丈な肉体に敵意を燃やし、この肉体を喰ひつぶすほどの思想を発明するために、生活を めちやくちやにしてしまつた。彼らはわざわざ、むりやりにアンバランスを作り出したのである。 もつともこの三人とても、頑丈な体を持ちながら脳ミソの空つぽな作家に比べれば、どれだけ文学者らしいか わからない。 一方では、知的でありすぎ、あるひは感覚的でありすぎる作家たちがゐる。文学作品を通した感覚といふものは、 元来知的なものであるから、知的な作家にこの二つを引つくるめてもよい。 彼らの作品には、確乎たる肉の印象がどこかに欠けてゐる。肉の耀やきが、本当の官能性といふものが欠けてゐる。 これは前記の例の逆のアンバランスである。 三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
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684 :大人の名無しさん[]:2011/05/02(月) 11:22:55.56 ID:D8IrDI1M - このアンバランスのはうが重大かと思はれるのは、ジイドもいふやうに「官能性こそは芸術家の最上の美徳」
だからである(因みにいふと、ジイドその人にも官能性が欠けてゐる)。これらの作家たちは、たとへ細緻な 性的感覚をゑがいても、肉の力と形態を欠いてゐるのである。 近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴はないのだ。 肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、 肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身に まとはせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。 ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。 だまされたと思つてボディ・ビルをやつてごらんなさい。 三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
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- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
380 :大人の名無しさん[]:2011/05/02(月) 19:55:18.20 ID:D8IrDI1M - この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。
良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、人の心を苛むものが どこかにあるのだ。 三島由紀夫「道徳と孤独」より 文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態をとるにいたらしめる、 さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。 爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。それは野獣をも生むのである。 三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。 三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より 愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。 三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者へのてがみ」より
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381 :大人の名無しさん[]:2011/05/02(月) 19:55:56.77 ID:D8IrDI1M - 男といふものは、もしかすると通念に反して、弱い、脆い、はかないものかもしれないので、男たちを支へて
鼓舞するために、男性の美徳といふ枷が発明されてゐたのかもしれないのである。さうして正直なところ、女は 男よりも少なからずバカであるから、卑劣や嫉妬やウソつきや怯惰などの人間の弱点を、無意識に軽々しく露出し、 しかも「女はかよわいもの」といふ金科玉条を楯にとつて、人間全体の寛恕を要求して来たのかもしれない。 三島由紀夫「男といふものは」より 恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。 三島由紀夫「『恥』」より 私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を大きらひだといふ奴は、 よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。 六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。 三島由紀夫「私の顔」より
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382 :大人の名無しさん[]:2011/05/02(月) 19:56:20.18 ID:D8IrDI1M - 文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。本当の青年だつたら、
矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。 青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。 青年期が空白な役割にすぎぬといふ思ひは、私から去らない。芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、 それよりもさらに、幼年期であらう。 肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれないものだと考へる私は、 青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く評価しないのである。肉体が衰へなくては、 本当の精神は生れて来ないのだ。私はもつぱら「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪は ここから生じる。 三島由紀夫「空白の役割」より
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383 :大人の名無しさん[]:2011/05/02(月) 19:56:45.26 ID:D8IrDI1M - 今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、老年の智恵に
青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割は そこにしかない。それに誠実に直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。 今日の時代では、自分の青春の特権に酔つてゐるやうな青年は、まるきり空つぽで見どころがなく、青春の特権などを 信じない青年だけが、誠実で見どころがあり、且つ青年の役割に忠実だといへるであらう。 さう思ふ一方、私にはやはり少年期の夢想が残つてゐて、アメリカ留学の一念にかられて、鱶のゐる海をハワイへ 泳ぎついた単純な青年などよりも、アジヤの風雲に乗じて一ト働きをし、時代に一つの青年の役割を確立するやうな、 さういふ豪放な若者の出てくるのを、待望する気持が失せない。 やはり青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかないからである。 三島由紀夫「空白の役割」より
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