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大人の名無しさん
三島由紀夫VS太宰治
三島由紀夫のオススメ作品@30代板

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三島由紀夫VS太宰治
629 :大人の名無しさん[]:2011/04/06(水) 11:39:49.76 ID:F/yNdmJE
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。小学校では五月の図画の時間に、
よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも概念的で、青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、
緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風をはらんでゐる姿である。風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、
よほどの問題児であると考へてよいが、どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くと
さうは描かない。ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を典型的な、あるべき姿でしか
とらへようとしないのである。それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、
あからさまに証明してゐる。しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳してゐるのである。
大胆で誇張された鯉幟のデザインは、遠目で見られることを計算してゐる点で、あくまで機能的である。歌舞伎の
小道具に見られるやうな、強い、なまなましい、野蛮な配色が、鯉の活力を表現してゐる。

三島由紀夫「こひのぼり」より
三島由紀夫VS太宰治
630 :大人の名無しさん[]:2011/04/06(水) 11:42:15.75 ID:F/yNdmJE
殊に真鯉は、五月の青空を背景にして、その黒い鱗の土俗的な新鮮さが、官能的でさへある。日本の五月の空が
こんなに明るく、日本の五月の風がこんなに光りに充ちてゐなかつたら、もちろんこんな配色やデザインは
生れなかつたであらう。(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝といふのがあつて、
エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想をあはらしてゐる。
農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と考へたのであるが、武士社会の
男性中心主義が、男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、鯉幟なんか廃棄されても
よささうなものであるが、これに代る女性的活力の象徴としては、まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。

三島由紀夫「こひのぼり」より
三島由紀夫のオススメ作品@30代板
352 :大人の名無しさん[]:2011/04/06(水) 20:04:51.98 ID:F/yNdmJE
なぜなら右のやうな完全さが人間界で通用するとは人間の可能性を予め殺すものであり、可能喪失の足場に於てこそ
一番高い建築がなされ得るからです。一番高い建築とは、即ち人間の死でありました。
この得難くまた得易い秀麗な建築。それについて語ることは又更に大いなるものについて語ることでもあります。
そしてその建築の哀切な高さについて。
可能性を放棄するとき人間の身丈は嘗て見ざるほど高くなるであらう。その高さは深部の明澄とすらもはや
無縁なものであるだらう。しかしどこか脆弱な高さである。僕らはそれに気附いて戦慄しました。
死といふものが、あの物質の老朽のやうに、一刻々々が予兆にも触れられざる潔癖な緩さに満ちたものだつたら。
海に沈む日のやうに、蒼褪めた死神の頬をも染めて止まない赫奕たる幻光を放つものだつたら。頽落する宮殿のやうに、
時間の秩序を徐々に濁らせ、つひには別箇の瑰麗な秩序へと凝結させる性質のものだつたら。又は、地上に落ちる
流星のやうに、ある高貴な衝動が無為にかゞやいた一本の弧にまで浄化されるのであつたら。――それはよいであらう。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
三島由紀夫のオススメ作品@30代板
353 :大人の名無しさん[]:2011/04/06(水) 20:05:30.31 ID:F/yNdmJE
しかし人間の死は、人間の死は何か別のものです。残された意志と云つたやうなもの。地球がもつ頽唐の感情を
奪去つたやうな一つの意志。最後の征服意志。時空の中絶をも奪はうとする一つの意志が、あるひは死への熱情となり、
あるひは不死への願望となるのでした。そして時にはそれが、人間に対して死自身がもつ不変の意志とも、全く
一致することさへあるのでした。そのみかけからの共謀も、戦慄に価する脆さをば、打破るわけにはゆかなかつた。
可能性の放棄といふ気高い英雄的行為。その高さが意志によつて脆くされるのであらうか。意志といふ白蟻が、
塔の高さを毀つのであらうか。否、むしろあの高さは意志様態であつた。意志の暗示のてだてであつた。たゞ
可能性の放棄は意志ではなかつた。可能性は意志の原形であつたから。ではそこにいかなる造形術が企てられたの
でしたか。僕らの原始のいかなるデフォルメーションがなされたのでしたか。それは言ひ難いことの限りでありませう。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
三島由紀夫のオススメ作品@30代板
354 :大人の名無しさん[]:2011/04/06(水) 20:06:13.08 ID:F/yNdmJE
(中略)
「待つ」、それはどんなに贅沢な約束であり悔恨でさへありませう。待つといふ刹那を信ずるために、今までの
人類の歴史はひたすらにめぐりつゞけてきたのではないのか。その美しさは放心と等しく、その謐けさ寧らかさは
不屈な魂の距離であつた。このやうな距離にぬれながら、かつてなきさはやかな背信を不断に投げつゞけて
くれるのは、あなたではなかつたか。――僕らは畢竟かくして二人称へとかへるでありませう。僕らの本然の故郷、
その二人称の場所にこそ、僕らの勇気が、僕らの愚行が、甲斐なきことの純潔さを以て、乾き、また乾かされ、
たんぽゝの綿のやうに飛翔(といふより盈溢)を待つでありませう。その花蔭は、花々の密度にひしめき、海よりも
なほ色濃く、今や可能の微風の内に、最初の戦慄を伝へてくるであらう。場所の不易、場所の不朽が、今こそ僕らを
飛翔させるであらう。百万の王国の名にも値ひせぬ僕らの政治が、昼の間は、貝殻のやうに快晴の希臘を映し、
甘美な埃を夢みず、あらゆる立法の又とない出帆の契りのため、千代かけてサン・サルヴァドルたらんと念ずるで
ありませう。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より


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