- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
345 :大人の名無しさん[]:2011/04/04(月) 16:56:42.98 ID:upb3xa7r - (中略)
優れた無為、それを僕らは水や風に対して考へました。先づ僕らは風のことを夢想しました。晴天の、凪ぎつくした 海にあつても、ある距離だけ岸から離れると、そこにはいつも帆船の帆を孕ますに足り乗手の髪をなびかすに足りる ある不朽の迅速な風が吹いてゐるといひます。その風はなまなかの生物とは関はりのない、しかも一種過敏に 失した傷つき易さをもつ非情の風でありました。なぜならその風の所在に触れそれを感じそれを耳に聞き目に見 鼻に嗅ぐ時のみでなく単にそれを知りそれを夢見るにすぎぬ時でも忽ちにしてそれ自身の本質を根底から変へて しまふやうな存在をもつた風でした。常住である点で頑なであり、傷つき易い点で優柔であるその風は、無関心と 非情の性質に於て、却つて人間の本質と深く相触れてゐるのでした。人間存在の本質を抹殺するその風に、実(げ)に 人間の真の不在が、即ち真の本質が潜在してゐるのではなかつたでせか。そこでは微小なポジティヴに対する 無窮のネガティヴがあり、あの巨大な夜のやうに鏤められた星辰を以て僕らを深く覆うてゐました。 平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
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346 :大人の名無しさん[]:2011/04/04(月) 16:57:14.48 ID:upb3xa7r - かやうなものこそ宇宙の啓示といへ神秘なる証しといへます。そこは到達しがたい裏側であるが故に、何事にも
代へ得ざる礎の有処でした。あの烈しい実在の正統な母胎でありました。いかなる壮麗無比の夢がその風のなかで ゑがかれようと、風は突如としてその夢を奪ひ、奪はれた夢のなかへ急速に陥ちてゆきます。激しく奔騰しながら 風は嘶きました。人間の夢のひとつひとつが風にはあらはな敵意と感じられたのです。 人間はこの風を記述するのに嘗て方法を知りませんでした。陸(をか)に揚げられるや忽ちその光輝は失はれ 華麗極まる彩色の美も死灰の色に移ろふといふあの深海魚をさながらに、人間のもつ作用の最も遥かな作用である 「知ること」に依つてすら、目にもとまらぬ迅さで風は己が様態を変へてしまふのでした。知ることを超えて いかなる記述があり得ませうか。 深海魚のもつ美しさといへども、海底ふかく潜つてゆけぱ、目のあたり之を見ることができます。が、銀貨の 表をしてその裏を窺はしめることは不可能事でなくて何でありませう。しかもこの裏面は不動の厳めしい裏面では ありませんでした。 平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
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- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
347 :大人の名無しさん[]:2011/04/04(月) 16:58:05.19 ID:upb3xa7r - この風こそは人間の真の不在をひつきりなしに証ししてゐるたをやかな面差の持主でありました。東方の仏陀のやうな
幽婉さを以て、宇宙万象のときめきに美しく慄へつゞけました。おもへば烈しい実在が人間の悲劇となることも、 その実在が彼(か)の風から生れ彼の風の逆説をきらびやかに身に纏つて、扨て人間の陥没をあまりにも荘厳に アンダラインするからでした。風は逸脱と普遍によつて、摩訶不思議な中間者となりました。媒体ではなく中間者に。 風は超えるといふことを逸脱しつゝ自由でした。超者と被超者との間を自由に往来できるのは風のみでした。 そこに於て風は手を要しませんでした。風は手をもちませんでした。 それだのに、手をもつ人間が、かやうな風の嫡子たる烈しい実在を内在する機会に遭ふとは、いかに高貴な苦悩に みちた歓びでありませう。清らかな愛の証跡も、運命の苦しい水脈(みを)も、あまねく歌ひつくされて、ふと 物に憑かれたやうに立止るあの真昼の時刻の歓びでありました。それは人間の癒しがたい疫病ではありましたが、 その悲劇の本性に於て、人間の魂の健康に相触れるところが寡くなかつた。 平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
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- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
348 :大人の名無しさん[]:2011/04/04(月) 16:58:38.36 ID:upb3xa7r - (中略)
風について語ることは、恰かも透視者がその霊妙な術を施し終つたあとで感ずるやうな死に庶幾(ちか)い疲労を 呼びさまします。透視者はその果てに死ぬといはれてゐます。しかしこのやうな疲労こそ人間の営為が、ある深く 美しい無為につながつてゐることの一つの証跡であり、人間の営為がかうした美しい無為を橋としてのみ現象と 実相のいづれからも逸脱し得るといふ一つの教へでありました。逸脱と遁走、――疲労はそれへの方法でした。 迅速きはまりない風に対して、彼(か)の美しい無為を持することは、巨きな古代の節制でありましたが、現代は その代償に、死の惧れさへある疲労を負はせずには措きません。嘗て多くの船舶が憩うてゐる波止場の切岸に 立つた僕は、水面に向ひ沖に向つてこのやうに呼びかけました。水よ! 水は永遠に疲れてゐる。汝の内にいかに 強い意志が籠り、いかに烈しい決心が宿らうとも、汝自身のもつ疲労をあざむくことはできぬ。疲労は汝の属性であり、 汝も亦、疲労の属性であるからだ。永遠に疲れたるものよ。実在をたしかに支へ、支へる力の無為のために、 驕奢を保て。 平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
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- 三島由紀夫VS太宰治
626 :大人の名無しさん[]:2011/04/04(月) 22:00:09.38 ID:upb3xa7r - 氏ほど秘密を持たない精神に触れたことがないと私が言つても、おそらく誇張にはなるまいと思ふ。秘密とは何か?
一体、人間に重大な秘密なんてものがありうるのか? われわれに向つてすぐさまかう問ひかけてくるのが、 氏の精神なのである。これは破壊的な質問であるが、氏は決して論理を以て追究することはない。問ひかけただけで 相手が凍つてしまふことが確実であるとき、どうして論理が要るだらう。 氏自身はダリの画中の人物のやうに、風とほしのよい透明きはまる存在であるのに、私は氏に接してゐると、 氏が自分の外部世界のお気に入りの事物へ秘密を賦与してゆく精妙な手つきが見えるのであつた。そこで氏が 世間の目に半ば謎のやうにみえてゐる理由も判然とする。氏自身の精神には毫も秘密がないのに、氏は自ら与へた 秘密の事物に充ちた森に囲まれてゐるからだ。その森には禽獣が住んでゐる。美しい少女たちが眠つてゐる。 眠つてゐる存在が秘密であるとは、秘密は人間の外面にしかないといふ思想に拠つてゐる。その存在を揺り 起してはならない。 三島由紀夫「川端康成読本序説」より
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- 三島由紀夫VS太宰治
627 :大人の名無しさん[]:2011/04/04(月) 22:01:35.01 ID:upb3xa7r - 揺り起せば、とたんに秘密は破れ、口をきく少女や口をきく禽獣は、たちまち凡庸な事物に堕するのだ。なぜなら
そこから、心が覗けてしまふからだ。そして心には美も秘密もない。川端文学が、多くの日本の近代小説家が 陥つた心理主義の羂(わな)に、つひに落ちずにすんできたのには、こんな事情がある。――これは存在に対する 軽蔑だらうか? 軽蔑から生れた愛だらうか? それとも存在に対する礼儀正しさと賢明な節度だらうか? そこに保たれる情熱だらうか?……この二つの見方で、川端文学に対する見方はおそらく劃然と分れる。 前者の見方を固執すれば、氏の文学は反人間主義の文学で、厭世哲学の美的な画解きのやうに思はれてくる。 また後者の見方を敷衍すれば、「川端先生の小説つて素敵だわ」と言ふ若いセンチメンタルな女性読者の、 「清潔好き」の嗜好までも含めることになる。氏の文学の読者層の広汎なことは、かういふさまざまな誤解を ゆるすところにあるのであらう。それはそれでいいので、いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから 二流品である。 三島由紀夫「川端康成読本序説」より
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- 三島由紀夫VS太宰治
628 :大人の名無しさん[]:2011/04/04(月) 22:02:43.72 ID:upb3xa7r - 私の考へでは、氏の文学の本質は、相反するかのやうにみえるこの二つの見方、二つの態度の、作品の中でだけ
可能になるやうな一致と綜合であらうと思ふ。もしわれわれが畏敬すべきものだけを美とみとめるなら、美の世界は どんなに貧弱になるだらう。のみならず、畏敬そのものに世間の既成の価値判断がまざつてゐるならば、美の世界は どんなに不純なものになるだらう。それならむしろ、やさしい軽蔑で接したはうが、美は素直にその裸の姿を あらはすだらう。しかし軽蔑が破壊に結びつき、美の存在の形へづかづかと土足で踏み込むやうなことをしたら、 この語らない美は瞬時にして崩壊するだらう。われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、 美を保ち、それから受ける快楽を保つ方法を知らないのである。こんなことは人間の自明の宿命であるが、現実の 世界では、盲目の人間たちがたえずこの宿命を無視し、宿命からしつぺ返しを喰はされてゐる。川端氏は作品の 中でだけ、この宿命そのものを平静に描いてみせるのである。 三島由紀夫「川端康成読本序説」より
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