- 三島由紀夫VS太宰治
619 :大人の名無しさん[]:2011/03/22(火) 17:32:33.00 ID:COCdsZWG - お伽噺のなかで犬が歌ひ茶碗が物語り草木や花が物を言ふやうに、芸術とは物言はぬものをして物言はしめる
腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はして おけばよい。そこへ芸術は手を出すに及ばぬ。それはそもそも芸術の領分ではなく、神が掌(つかさど)る所与の 世界の相(すがた)であるから。――しかし処女は物言はぬ。一凡人の平坦な生涯は物言はぬ。そこに宿つた 平凡な幸福は物言はぬ。ありふれた幸福な夫婦生活は物言はぬ。ありふれた恋人同志は物言はぬ。要するに 類型それ自体は決して物言はない。すぐれた芸術は類型それ自体をゑがかずして、しかもその背後にはもつとも あり来りの凡々たる類型が物言はしめられてゐることを注意すべきだ。幸福は類型的なるものの代表である。 それゆゑにこそわれわれは過去の芸術のなかに、喜劇と比べて量に於ても質に於てもはるかにすぐれた悲劇を 持つてゐる。してみればロマンティスムの象徴せんとするものは生れ生き恋し結婚し子をまうけ凡々たるノルマルな 生活それ自体に他ならないかもしれない。 三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より
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- 三島由紀夫VS太宰治
620 :大人の名無しさん[]:2011/03/22(火) 17:33:59.67 ID:COCdsZWG - ――物言はぬものをして物言はしめる意慾は、自ら物言はぬものとなつては果されぬ。物言はぬもの、それが作品の
素材である。川端康成の生活にはこの素材の部分が全く欠如してゐる。書かれる自我はない。彼の書く手の周囲、 彼の書く存在の周囲に、物言はぬもの、即ち処女や恋人同志や夫婦や、踊子たちがむらがつた。彼らはやさしい 媚びるやうな目でこの詩人的作家をみつめてゐる。彼らは処女が「自ら歌へぬ」存在であることを誰よりも切なく 知悉してゐるこの不幸な作家をみつめてゐる。その限りで、彼らはお伽噺のなかの犬や茶碗に等しい。処女たちは、 踊子たちは禽獣であつた。ここに川端康成の孤独がはじまる。自己の中に存する物言はぬもの(即ち書かれるもの)と、 外界の物言はぬものたちとの、共感や友愛やはたまた馴れ合ひや共謀やは、彼の場合はじめからありえぬことだつた。 三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より
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621 :大人の名無しさん[]:2011/03/22(火) 17:35:17.71 ID:COCdsZWG - (中略)
作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を知ることはまた一瞬の裡に その女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。作品が存在した故に作品の内容が内的体験となつて再び 生の実在に導き入れられるのではなく、生をして夢みさしめ数刻を第二の生のうちに生かしめたが為に芸術作品は 存在しはじめるのかもしれない。してみれば女が先づ在つて運命が存在しはじめるのではなく、われわれが生を 運命として感じ歌ひ描き夢みること、その行為の象徴として女が存在しはじめたのかもしれないのだ。その時 われわれが自らの自我の周囲におびただしい物言はぬ存在を――つまりはわれわれ自身の孤独の投影を―― 感じることは、やがて芸術の始源を通して芸術を見、一つの決定された作品としての運命を蝕知することだ。 少くともその瞬間、われわれは川端康成と共に、自己の存在が一つの作品に他ならないことを感じるであらう。 彼の文学を知る道も、この他にはないのである。 三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より
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