- 三島由紀夫のオススメ作品@30代板
106 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 11:10:42 ID:n9n3gKpI - 表現といふことは生に対する一つの特権であると共に生に於ける一つの放棄に他ならぬこと、
言葉をもつことは生に対する負目(ひけめ)のあらはれであり同時に生への復讐でも ありうること、肉体の美しさに対して精神の本質的な醜さは言葉の美のみがこれを 償ひうること、言葉は精神の肉体への郷愁であること、肉体の美のうつろひやすさに いつか言葉の美の永遠性が打ち克たうとする欲望こそ表現の欲望であること、――かうした さまざまな判断を次郎は事もなげに採集した。彼は肉体を鍛へるやうに言葉を鍛へた。 文体に意を須(もち)ひ、それが希臘彫刻の的確な線に似ることを念願とした。 古代彫刻の青年像に見られる額から鼻へかけてのなだらかな流線は、自然そのままの 模写ではない。いはばそれは自然がわれわれにむかつて約束してゐる美の具現である。 本当の意味での創造である。すべての自然のなかには創造されたいといふ意志、深い 祈念をこめた叫びがある。 三島由紀夫「火山の休暇」より
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107 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 11:11:01 ID:n9n3gKpI - …この刹那の落日は彼を感動させたのである。
『われわれの生も……』と次郎は考へた。『われわれが考へるよりはもつと壮大であり、 想像と思念と行動が及ぶかぎりをこえて壮麗なものであるにちがひない。さればこそ それは現実ではないんだ。さればこそそれは表現を要求するんだ。この廻りくどい緩慢な 行為を要求するんだ。表現によつて、われわれは生へ還つてゆく。芸術家が死のあとまでも 生きのこるのはそのためだ。しかも表現といふ行為は、芸術家の生活は、何といふ緩慢な 死だらう。精神が肉体を模倣し、肉体が自然を模倣する、つまり自然を――死を模倣する。 自然は死だ。そのとき芸術家は死の限りなく近くに、言ひかへれば、表現された生の 限りなく近くにゐるのだなあ。芸術家にとつては、だから絶望は無意味だ。絶望する暇が あつたら、表現しなければならぬ。なぜかといつて、どんな絶望も、生を前にして表現が 感じなければならぬこの自己の無力感、おのれの非力を隅々まで感じるこの壮麗な歓喜と 比べれば何ほどのことがあらう。……』 三島由紀夫「火山の休暇」より
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108 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 11:11:23 ID:n9n3gKpI - それにしても、火山は休んでゐるのに、次々と自殺者が船に乗つて、はるばる東京から
この島まで来て、噴火口に身を投ずるのは何故であらう。火山は休業中だ。地獄へ行つても 休業中といふ札が貼つてあるかもしれない。地獄の大通りを歩いて行つても、酒屋も 理髪店もホテルも八百屋も魚屋も公会堂も劇場も、ことごとく休業中といふ札を戸口に 貼つてゐるかもしれない。死んだ人間は、休業中の火山へとびこんで、休業中の地獄へ 行つて、休業中の大通りを歩いて、結局どこまで行つても泊めてもらふことができない かもしれない。さて、それから先、どこへ行けばよいのであらう。……それにもかかはらず、 空虚な火口へ身を投ずるために、次々と、人は船に乗つてここの島を訪れるのである。 結局、地獄はなくなつたのではなからうか。現代の地獄は、地獄が存在しないことでは あるまいか。現代の怖ろしい特質はここにあるのではなからうか。さもなければあれほど 人々が地獄を呼び求め、ありもせぬ地獄を翹望(げうばう)する気持が次郎にはわからない。 三島由紀夫24歳「火山の休暇」より
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109 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 11:18:54 ID:n9n3gKpI - 美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。
女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと 見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は 甚だ痛んだ。 良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。 三島由紀夫26歳「家庭裁判」より 久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい 心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。 血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、 人間も及ばなぬ献身のまことを示した。 よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。 三島由紀夫24歳「鴛鴦」より 不道徳も清潔な限り美しいものである。 三島由紀夫25歳「修学旅行」より
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110 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 11:27:59 ID:n9n3gKpI - 潔癖な人間には却つて何事もピンセットで扱ふことに習熟したやうな或る鷹揚さ、緩慢さが
備はるものだ。 罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を 人は恕さない。 三島由紀夫24歳「果実」より 寡黙な人間は、寡黙な秘密を持つものである。 恋人同士といふものは仕馴れた役者のやうに、予め手順を考へた舞台装置の上で愛し合ふ ものである。 悪意がないといふことは一向弁明にならない。善意も、無心も、十分人を殺すことの できる刃物である。 三島由紀夫25歳「日曜日」より 占領時代は屈辱の時代である。虚偽の時代である。面従背反と、肉体的および精神的売淫と、 策謀と譎詐の時代である。 三島由紀夫28歳「江口初女覚書」より
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111 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 11:32:43 ID:n9n3gKpI - われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。
少女の驕慢な心は、概ね不測の脆さと隣り合せに住んでをり、むしろ脆さの鎧である。 空想といふものは、一種専制的な秩序をもつてゐる。 三島由紀夫25歳「遠乗会」より 人生経験は多くの場合恋愛に一定の理論を与へるが、人は自分の立てた理論を他人に 強ひこそすれ、自分は又してもその理論に背いて躓(つまづ)くのを承知で行動する。 生活とは凡庸な発見である。いつもすでに誰かが先にしてしまつた発見である。 お互ひが見えてゐて見えない。手をのばせば触れることができて触れ合はない。ところが さういふ理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、 人は「親密な他人」になれない。 吝嗇といふものは一種の見張りであり、陰謀であり、結社であり、油断のならない正義の 熱情である。 絶望的な浪費癖にくらべると、吝嗇は実に無我で謙遜である。 三島由紀夫25歳「牝犬」より
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112 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 16:30:01 ID:n9n3gKpI - 素足で歩いては足が傷ついてしまふ。歩くためには靴が要るやうに、生きてゆくためには
何か出来合ひの「思ひ込み」が要つた。 悦子は明日に繋ぐべき希望を探した。何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。 それがなくては、人は明日のはうへ生き延びることができない。明日にのこつてゐる 繕ひものとか、明日立つことになつてゐる旅行の切符とか、明日飲むことにしてある罎の のこりの僅かな酒とか、さういふものを人は明日のために喜捨する。そして夜明けを 迎へることを許される。 ……雲がとほりすぎる。野面が翳つて、風景はまるで意味の変つたものになる。……人生にも、 一見、存在しさうに思はれるこの種の変化。ほんのちよつと眺め方を変へただけで、 人生が別のものにもなりうるやうなかうした変化。悦子は居ながらにしてかういふ変化が 可能であると信ずるほどに傲慢だつた。所詮人間の目が野猪の目にでも化(な)り変ること なしには仕遂げられないこの種の変化。……彼女はまだ肯(うべな)はうとしない。 われわれが人間の目を持つかぎり、どのやうに眺め変へても、所詮は同じ答が出るだけだ といふことを。 三島由紀夫「愛の渇き」より
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113 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 16:30:21 ID:n9n3gKpI - 何もかも見かけの世の中だ。平和も見かけなら不景気も見かけ、してみれば、戦争も
見かけなら好景気も見かけ、この見かけの世界で多く人が生死してをる。人間だから 生死は当然のことです。これは当然のことだ。しかしこんな見かけだけの世界では、 そこに命を賭けるに足るものが見つからない。さうでせう、『見かけ』に命を賭けては 道化になる。しかも私といふ人間は命を賭けねば仕事のできない男です。いや、私ばかりが さうなのぢやない。苟(いやしく)も仕事をしようとすれば、命を賭けずに本当の仕事が できるものではない。私はさう思ひます。 生れのよい人間は滅多に風流になんぞ染つたりはせぬものだ。 われわれはむしろ、自分が待ちのぞんでゐたものに裏切られるよりも、力(つと)めて 軽んじてゐたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。それは背中から刺された 匕首(あいくち)だ。 三島由紀夫「愛の渇き」より
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114 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 16:30:37 ID:n9n3gKpI - 人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしない
といふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難であり、 他ならぬこの困難が悦子の幸福の根拠であつた。 この世の情熱は希望によつてのみ腐蝕される。 ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも困難である。 人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平に、悦子は何ら抵抗を感じなかつた。 『容易なはうがいいにきまつてゐる』と彼女は考へた。『なぜかといへば、生きることが 容易な人は、その容易なことを生きる上の言訳になどしないからだ。それといふのに、 困難のはうはすぐ生きる上の言訳にされてしまふ。 三島由紀夫「愛の渇き」より
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115 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 16:31:05 ID:n9n3gKpI - 生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。わたしたちが
生の内にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を人並に容易にする ために役立つてゐる能力なのだ。なぜといつて、この能力がなかつたら、わたしたちに とつての生は、困難でも容易でもないつるつるした足がかりのない真空の球になつてしまふ。 この能力は生がさう見られることを遮(さまた)げる能力であり、生が決してそんな風に 見えては来ない容易な人種の、あづかり知らぬ能力であるとはいへ、それは何ら格別な 能力ではなく、ただの日常必需品にすぎないのだ。人生の秤をごまかして、必要以上に 重く見せた人は、地獄で罰を受ける。そんなごまかしをしなくつても、生は衣服のやうに 意識されない重みであつて、外套を着て肩が凝るのは病人なのだ。私が人より重い衣裳を 身にまとはなければならないのは、たまたま私の精神が、雪国に生れてそこに住んでゐるからの ことにすぎぬ。私にとつて生きることの困難は、私を護つてくれる鎧にすぎないのだ』 三島由紀夫「愛の渇き」より
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116 :大人の名無しさん[]:2011/01/23(日) 16:31:31 ID:n9n3gKpI - 下から上を見たときも、上から下を見たときも、階級意識といふものは嫉妬の代替物に
なりうるのだ。 人生には何事も可能であるかのやうに信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間におそらく人は 普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度忘却の底に横たはつたのちも、 折にふれては蘇つて、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき豊饒さを、再びわれわれに向つて 暗示するのであるが、運命的なこの瞬間を避けることは誰にもできず、そのために どんな人間も自分の目が見得る以上のものを見てしまつたといふ不幸を避けえないのである。 偏見でない道徳などといふものがあるだらうか? あまりに永い苦悩は人を愚かにする。苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を疑ふことが できない。 嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に近づく のである。 衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものが この世にあらうか。 三島由紀夫25歳「愛の渇き」より
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