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名無しの与一
弓道総合スレ 十四立目
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弓道総合スレ 十四立目
3 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 08:08:28 ID:sID9FzFu
息を吐くと、次には自然とお腹が膨れて息が入ってきます。
今度は、自然にお腹がへこんで息が出て行きます。

この時、息を吐き終わって其の侭にしておくと、間もなく苦しくなります。
それを避けるために、横隔膜などの筋肉が緊張して、息を吸い込むんです。
吸い終わると楽になります。
その後息を吐きますが、筋肉の弛緩ですから、もっと楽になります。
この楽は、なんとも甘美なものですね。

しかし、この楽も長くは続きません。
それで、また筋肉を緊張させて息を吸います。

知や意や情を伴わないで呼吸してみると、上記のような事が実感されます。

つまり、息苦しくなった時には、筋肉の緊張(吸う)という働きかけ・更なる苦を加えてそこ楽が齎されます。
その楽に筋肉の弛緩(吐く)という楽が加えられると、更に楽になります。
しかし、その楽にも間もなく息苦しいという苦が齎されるのです。

苦を極めれば楽に転じ、楽を極めれば苦に転ずるというような、まあ道教の教えのようです。

ところで、心と体が一体のもので、本来の人の在り様がこの呼吸に表れているとしたら、全ての計らいを取り去って素に成った時に、よくよく見たら、その素が計らっていたのですね。
この辺りが私の知った(狭義の)禅の限界ですね。

人は一時何の計らいも無く、またその事さえも無い最低の何かであり大安楽あっても、やがては苦が現れ、計らうからこそ何かであれるのでしょう。
すなわち、大安楽は精々一息を吐く間ですね。

生きながらに最低の何かになりきって、大安楽を得ようなどという根性が、いけません。
また、最低の何かに成る過程に、省みない事が含まれているということは、俗人からすれば莫迦げた、まさに宗教です。


弓道総合スレ 十三立目
994 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 08:09:26 ID:sID9FzFu
>>988
君は、口と肛門が同じ所にあるんだね。
弓道総合スレ 十四立目
5 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 09:46:05 ID:sID9FzFu
知や意や情がすっかり落ちた何かと、知や意や情をしっかりと統合した心の両方で垣間見た世界や自分が、少なくとも一方だけよりはありのままだと、思いますよ。

禅を能くする人が捉える宇宙や自分も真理でしょう。
また、科学や哲学や個我であって、それが虚偽か何かであろうが、それも真理です。
真理に、選り好みなどありません。
それが、あるがままです。


弓道総合スレ 十四立目
6 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 09:49:48 ID:sID9FzFu
俗人一般には、心とは概ね顕在意識のこと、と思います。
しかし、石女と人とを対比してみると、別な心のあり様も見えてきます。
つまり、人には石女に求め得ない命が有ります。
生命とそうでない物との決定的な差異は、情報システムの有無です。

こういった観点から考えれば、心とは遺伝子レベルからの広範な情報の作成や伝達や処理等の全体、と捉えなければなりません。
しかし、座禅をして、例えば呼吸という一事に成り尽くした時の心とは、先に記した顕在意識ではないのでしょうか。

人の体は約60兆個の細胞で出来ていると言われていますが、肺や各細胞でのガス交換、多種多様な筋肉の活動、体内の酸素や二酸化炭素等の量を測るセンサーの働きとその伝達、それらの調整機能と命令機能等、中々書き切れません。

さて、禅を良くする人が脱落底でこの呼吸自体に成り切ったとして、何に成り切ったのでしょうか。
心と身が一如なら、呼吸の全てが同時に十全として心に成るのでしょう。
しかし、そうは行きません。
また、一個の細胞の呼吸の働きに成りきっても、それを十全とする心にさえ成りきらないのです。
探索を捨て観切る前に、元になる大事なことは、しっかりと観て下さい。

私は、この顕在意識なるものが、心とは思っていません。
心と言われていた顕在意識は、認識自体です。
この認識自体は、呼吸をしませんし、思考もしません。
ですから、呼吸と心が一如になるとは、妄想です。

認識には一定の許容量があり、また志向性・快や苦の信号の大きいものから優先的に取り上げるという特性もあります。
だから、脱落底で余分な雑念を取り除いた分は、呼吸の様子がより明確になります。
しかし、呼吸の全体を同時に十全と捉えるには認識自体の許容量が小さすぎます。
また、特定な一個の細胞の呼吸を捉えるのは、その快や苦の信号が小さ過ぎるため現実的に認識には至りません。

弓道総合スレ 十四立目
7 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 10:03:30 ID:sID9FzFu
1.私たちの宇宙は、二つの異なる3ないし4次元(時)空間の混合によって生まれた。
2.この異なる二つの空間どうしは、重なり合って存在している。
3.この空間どうしには、時として連絡通路が開かれる。
4.ビッグ・バンのとき、複数の連絡通路が同時に開いて、一方の空間から他方の空間へと大量の異空間が流入し合った。
こういったものの一つが私たちの宇宙を形成したのではないのか、と思われる。
5.勿論、こちらの空間に流れ込んだ流量の合計と向こうの空間へ流れ出ていった空間の合計量とは、等しいのだろうが・・・。
6.私たちの電磁波が飛び交う空間Aを基にすれば、宇宙の外部は反空間Bということになる。
7.電磁波やエネルギーと言われるものは、反空間Bに流入した異空間A自体ではないだろうか。
8.原子の周りの電子は反空間Bであって、その中に異空間Aや超微細なAとBの飛沫の様なものが複雑に混合されたものが封じ込められているのではないのだろうか。
9。どうも空間には、異質な空間を封じ込めて、もと来た空間へと送り返そうという性質が感じられる。
そうした性質の現象として、引力が有るようにも思える。
10.エネルギーが保存されるのは、決して溶け合うことの無い空間どうしの特性だろう、と思われる。
11.マクロの世界では相対性理論が成立し、ミクロの世界では量子論が成立するのは、これら二つの空間の異質性に由来するのではなかろうか。

弓道総合スレ 十四立目
11 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 16:28:52 ID:sID9FzFu
>>10
まず、幸せというのがどういう事なのかを考えなければなりません。
個人に絞って言うのなら、快感を味わう事でしょう。

人には、先天的に快感が付与されています。
摂食の快感・排便の快感・性的な快感など、生存と種の保存のためですが、探してみるとたくさん有りますよ。

また、人が行動や思考を始める契機になるのが、快感を予感する快感です。
実際にケーキを食べるのも快感ですが、これからそうしようと想像する方が、意外と大きい快感を得られるものです。
それが、快感を予感する快感で、これも志向性として大きな役割を果たしています。

実は、地味に数学で計算問題を解く時にも、別冊の回答で丸付けをして、それなりの快感を感じているのです。

また、快感等を求めずしては、基本的には行動していないのが、人間なのです。
ただし、不快や不快を予感する不快に就いては、それを回避するために行動していますが・・・。
この不快等の回避でさえ、実は快感を予感する快感に置き換えて行動しているのです。

このように考えてくると、人は幸せで生きているとさえ言えるのです。

ちなみに、私の場合は呼吸法で即座に無心に成り、呼吸をする幸せを感じることが出来ます。
ただの考え方ではなく、実際にうっとりとした感覚に浸ることが出来ます。

お釈迦様のように全ては苦だと考えたり、自分に幾らでもある幸せを感じ取れないから、多くの人々は不幸なのでしょう。

そして、自分が幸せだと判れば、それを広げていきたいですよね。


弓道総合スレ 十四立目
12 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 17:30:14 ID:sID9FzFu
初めに、一心になるという言葉を説明します。
一心になるとは、一事に集中するということです。
会では、伸び続けるということですね。

しかし、その先も有ります。
私の経験では、一心が極を迎えるとき、一事に集中するという思いさえも消えうせて、無に至ることがあります。
わたしはこれを弓に当てはめた時、悟りの射として目標にしています。

さて、一心になる為の方法論ですが、私は呼吸法との関連性を考えています。
人類が言語を持ち始めたのは約12万年前だ、と言われています。
のどの奥に充分な空間が出来て後、呼気を微妙に調整できるように、横隔膜と胸腔の周りの筋肉を随意的に動かすことが出来る制御システムが脳内に出来上がったのだそうです。
その時期が12万年前ということです。

これらによって、呼気に複雑な言語をのせて、自由に話せるようになったのだそうです。
また、本格的な言語の出現以前にも、人類には非言語の感情があり、穏やかで比較的持続性のある気分や激しく一時的な情動や場合によっては原始的な情操というものも有ったのかもしれません。

弓道総合スレ 十四立目
13 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 17:31:24 ID:sID9FzFu
この言語と感情は、共に人間の情報処理システムとしての意味を待ってきましたが、更なる共通点として呼吸との深い関係性を持っているようです。

私たちが話をする時、或る感情が起こるとき、心に何らかの考えを浮かべるだけでも、呼吸に反映するようです。
もっと直接的に言えば、心に何かが起これば、胸腔を取り囲む筋肉が動きます。

そして、言語や感情と胸腔を取り囲む筋肉とは、可逆的な関係性を有しているように思われます。

つまり、『心に浮かぶ言語や感情が胸腔の周囲の筋肉を動かし』、『その筋肉の動きを止めてしまうと、思考や感情を止めてしまう』ことが出来るということです。
これは、私の内観的な経験論ですが・・・。

また、偶然にもこの二つの考え方は、或る命題とその対偶の関係に対応していますね。
或る命題が真ならば、その対偶もまた真となります。

さて、私は専門家ではありませんから詳しくは知りませんが、ヨーガや仙学・禅では呼吸法がその修行法に取り入れられ、自己の心(や体)をコントロールする為のものとされているようです。
勿論、弓道でも呼吸法は重要視されていますね。

そこで、会で一心になって伸び続け、[離すのではなく、離されるのでもなく]・・・教本に記載されていますが、・・・離れるには、・・・。

ここでひとつ、大事なチェックが有ります。
1.離すのではなく・・・馬手が弦を離すのではない・・・(能動的表現)
2.離されるのでもなく・・・弦が馬手に離されるのでもなく・・・(受動的表現)
上記の二つの意味は同一で、弦を離すのは馬手になっています。
基本的に教本では、馬手が弦を離してはいけないと主張しているのだと思います。

3.離れる・・・弦が馬手から離れる・・・(自発的表現)
4.離れる・・・馬手が弦から離れる・・・(自発的表現)
上記の二つの解釈では、離れる主体が3・弦と4・馬手とに別れて対立します。
どちらが正しいのかということですが、離れという刹那は、本来矢が放たれる契機です。
勿論矢は弦に番えられているのですから、3の解釈を支持するのが妥当だと考えられます。

弓道総合スレ 十四立目
14 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 17:32:19 ID:sID9FzFu
つまり、離れるとは弓の弾性変形による力によって、自然(自発的)に弦が弦枕から離れるということで、離れの主体が弓に有り、射手の行為は従属的なものであることを承知しなければならなくなります。

そこで、実際に離れるためには、会に至るまで暴発しないように右肘で内側に捻り、またゆがけの親指を押さえ込んできたのですが、そのゆがけの押さえ込む指の力だけを徐々に減少させていけば、弓の反発力で自然に離れを生じるでしょう。

この時、会に入った瞬間には、暴発を防ぐ二つの力が、それぞれに弓の離れようとする力より小さく、且つ二つの合力が弓の離れようとする力より大きいことが、重要です。

さて、ここで大切なのは、馬手・指の力を意図的に抜いて行くのか、無の境地に向かって行くうちに徐々に力が抜けていくのかの問題です。

前者の場合は、力を抜くという意図が気負いとなって他所に無駄な力がかかって伸びが止まり、ゆるみ離れとなります。
後者は、一心なる伸びの延長上に離れを生じます。

馬手について言えば、右肘で伸びるのですから指の力が減少することで、ゆるみには当たらないと考えます。

結局自分にあった心をコントロールする呼吸法を身に付けるということになりますね。
私としては理屈では判りかけてきたように思いますし、一度だけ経験も有るのですが、何しろ弓のことは弓と体を使って心に刻んでいく他は無いようですね。
弓道総合スレ 十四立目
19 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 19:48:00 ID:sID9FzFu
内容に就いてですが、二点ほど考えておくことが有りそうです。

一つ目は、会でのゆるみについてです。
物理的に引く矢の束が変わらなければ、ゆるんではいないのかなぁ、と考えています。
本来、離れを押さえ込む指の力は、弓を押し引きする力とは、別物と考えるからです。
右手では、手首の力がほぼ抜けていて、外見的には肘からゆがけまで弧を描いています。
弦枕が弦に引かれている状態ですが、親指が徐々にかた帽子を解くように動き、その後で放たれるのなら、物理的にもゆるみだと思います。

しかし、親指が少しずつずれることなく一気に離れるのなら、ゆるみではないと思われます。

二つ目は、無念無想ですが、一応二種類を考えています。
一つは、自分についても周囲についても充分な知覚があるにも拘らず、意識に雑念が入ってこない状態です。
もう一つは、自己と周囲の知覚がすぼめられて点になってしまうような状態です。
このとき、感じられる点ですが、密度が大きくなり、途方も無い質量で、超高温な塊のようなものです。
そして、その点が自分自身であるのです。

私が目指している離れは、後者の方です。
この時、自分の体も道具も、時間感覚さえ感じられません。
弓道総合スレ 十四立目
20 :名無しの与一[]:2009/12/23(水) 20:41:22 ID:sID9FzFu
自然で安定した立ち姿を保つためには、両足の裏の拇指球を中心にして左右均等に体重をかけるのが、経験上最良と思われます。
この場合、拇指球以外の足の接地面で、バランスをとることになります。

つまり、体重が最もかかる部分とそれを維持する部分とが意識的に区別されることで、
しっかり踏みつけられる安定した状態を保ち易くなるからです。

もう一つ、丹田呼吸と深く関わり大切なのは、背骨の使い方です。
人の体を右横から見たとき、背骨はS字の様に湾曲していますが、特に尾てい骨から上の部分、約20センチ位を反らせて、お尻が後ろ上方に向くようにし、背骨の湾曲に従いながらもその上に頭部がしっかりと載った姿勢が重要だと、思われます。

こうすることで、本来の背骨が姿勢を支える中心になり、余分な筋肉の強張りを取り除きます。

初めは大変かもしれませんが、慣れると声楽家やモデルのような姿勢になります。

練習法としては、壁に両踵とお尻と両肩と後頭部が付くように立ってみてください。
この時、ウエストの高さの部分と壁の間に、隙間が出来ます。
弓の場合は、この隙間が拳一つ分より小さめの方が良いと思われます。



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