- 空手の型はやるだけ無駄と言う現実96
66 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/12/30(土) 08:49:57.68 ID:eWakHYzN0 - 中国に似てくる日本 中国研究所理事長 杉山文彦
主権在民考えない発言 日本人は中国嫌いだと世上言われている。 事実、内閣府の世論調査では、中国に「親しみを感じない」という回答がここ数年7,8割を占める。 しかし私には最近、日本は日に日に中国に似てくるように思える。 自民党若手議員の勉強会で「沖縄の二つの新聞はつぶさにゃあかん」と気勢が上がる。 「法的安定性は関係ない」との発言が首相補佐官の口から飛び出す。 こういった発言は、共産党が全てを指導し、自由も平等も、また法的公正も、 みな共産党の指導(都合)に沿う範囲でのみ認められるという中国の体制の下でこそふさわしい。 実際、中国では政府に批判的な新聞の編集者が辞めさせられたり、社会活動家や弁護士が法的根拠も不明確なままに拘束されたりする。 日本はどうか。 憲法は主権在民、基本的人権、表現の自由をうたっているから、前述の発言は国民としての基礎的教養を欠き、ルールを無視しているということになる。 ところが、くだんの言は、選挙で選ばれた議員やその周囲に集う者の言葉である。 こうなると国民のかなりの部分が、主権在民や人権尊重を理解せずに物事を判断し、憲法に基づくルールとは違った心情で生活していることになる。 どうしてこんなことになってしまったのか。 長らく教職にあった私としてはやはり教育の問題を考えざるを得ない。 子供が自我を形成し大人になってゆくことは、それまでなんとなく従っていた周囲の状況を自分の目でとらえ直して自分なりの社会のイメージを形成し、 それに働きかけるようになることである。 いや、人権だの自我だのと面倒なことを言わずとも「美しい日本」の伝統によれば良いと考える人も多いだろう。 しかし、それではうまくいかぬことは、第2次大戦の悲劇が示している。 それでもという「美しい日本」派の人は、ぜひとも自民党の「憲法改正草案」と「中華人民共和国憲法」を熟読していただきたい。 両者はよく似ている。 どちらも権力の暴走から国民を守るためではなく、権力によって国民を動員するためのものである点で基本的性格を共にしているからだ。
|
- 高校剣道を熱く語る 93
448 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/12/30(土) 08:51:15.83 ID:eWakHYzN0 - 中国に似てくる日本 中国研究所理事長 杉山文彦
主権在民考えない発言 日本人は中国嫌いだと世上言われている。 事実、内閣府の世論調査では、中国に「親しみを感じない」という回答がここ数年7,8割を占める。 しかし私には最近、日本は日に日に中国に似てくるように思える。 自民党若手議員の勉強会で「沖縄の二つの新聞はつぶさにゃあかん」と気勢が上がる。 「法的安定性は関係ない」との発言が首相補佐官の口から飛び出す。 こういった発言は、共産党が全てを指導し、自由も平等も、また法的公正も、 みな共産党の指導(都合)に沿う範囲でのみ認められるという中国の体制の下でこそふさわしい。 実際、中国では政府に批判的な新聞の編集者が辞めさせられたり、社会活動家や弁護士が法的根拠も不明確なままに拘束されたりする。 日本はどうか。 憲法は主権在民、基本的人権、表現の自由をうたっているから、前述の発言は国民としての基礎的教養を欠き、ルールを無視しているということになる。 ところが、くだんの言は、選挙で選ばれた議員やその周囲に集う者の言葉である。 こうなると国民のかなりの部分が、主権在民や人権尊重を理解せずに物事を判断し、憲法に基づくルールとは違った心情で生活していることになる。 どうしてこんなことになってしまったのか。 長らく教職にあった私としてはやはり教育の問題を考えざるを得ない。 子供が自我を形成し大人になってゆくことは、それまでなんとなく従っていた周囲の状況を自分の目でとらえ直して自分なりの社会のイメージを形成し、 それに働きかけるようになることである。 いや、人権だの自我だのと面倒なことを言わずとも「美しい日本」の伝統によれば良いと考える人も多いだろう。 しかし、それではうまくいかぬことは、第2次大戦の悲劇が示している。 それでもという「美しい日本」派の人は、ぜひとも自民党の「憲法改正草案」と「中華人民共和国憲法」を熟読していただきたい。 両者はよく似ている。 どちらも権力の暴走から国民を守るためではなく、権力によって国民を動員するためのものである点で基本的性格を共にしているからだ。
|
- 黒田鉄山先生と振武舘 35
514 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/12/30(土) 08:51:40.07 ID:eWakHYzN0 - 中国に似てくる日本 中国研究所理事長 杉山文彦
主権在民考えない発言 日本人は中国嫌いだと世上言われている。 事実、内閣府の世論調査では、中国に「親しみを感じない」という回答がここ数年7,8割を占める。 しかし私には最近、日本は日に日に中国に似てくるように思える。 自民党若手議員の勉強会で「沖縄の二つの新聞はつぶさにゃあかん」と気勢が上がる。 「法的安定性は関係ない」との発言が首相補佐官の口から飛び出す。 こういった発言は、共産党が全てを指導し、自由も平等も、また法的公正も、 みな共産党の指導(都合)に沿う範囲でのみ認められるという中国の体制の下でこそふさわしい。 実際、中国では政府に批判的な新聞の編集者が辞めさせられたり、社会活動家や弁護士が法的根拠も不明確なままに拘束されたりする。 日本はどうか。 憲法は主権在民、基本的人権、表現の自由をうたっているから、前述の発言は国民としての基礎的教養を欠き、ルールを無視しているということになる。 ところが、くだんの言は、選挙で選ばれた議員やその周囲に集う者の言葉である。 こうなると国民のかなりの部分が、主権在民や人権尊重を理解せずに物事を判断し、憲法に基づくルールとは違った心情で生活していることになる。 どうしてこんなことになってしまったのか。 長らく教職にあった私としてはやはり教育の問題を考えざるを得ない。 子供が自我を形成し大人になってゆくことは、それまでなんとなく従っていた周囲の状況を自分の目でとらえ直して自分なりの社会のイメージを形成し、 それに働きかけるようになることである。 いや、人権だの自我だのと面倒なことを言わずとも「美しい日本」の伝統によれば良いと考える人も多いだろう。 しかし、それではうまくいかぬことは、第2次大戦の悲劇が示している。 それでもという「美しい日本」派の人は、ぜひとも自民党の「憲法改正草案」と「中華人民共和国憲法」を熟読していただきたい。 両者はよく似ている。 どちらも権力の暴走から国民を守るためではなく、権力によって国民を動員するためのものである点で基本的性格を共にしているからだ。
|
- 空手の型はやるだけ無駄と言う現実96
92 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/12/30(土) 22:59:23.34 ID:eWakHYzN0 - 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。 「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、 日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。 それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。 「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。 「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。 つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。 ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。 巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。 捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。 そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。 だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。 自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。
|
- 仙人になりたいからオススメの武道教えて
81 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/12/30(土) 22:59:44.01 ID:eWakHYzN0 - 「反日」という言葉はとても便利です。この言葉を濫用する人は、敵味方で世界を単純化しがちなこと、
立場の異なる相手について考える想像力に欠けること、批判精神がなく事大主義に陥りやすいこと、つまり知的な誠実さをおよそ欠いていることが一目でわかるからです。 「反日」を濫用する人はしばしば、日本について批判をする人にその言葉を投げかけ、「日本人なら日本を好きなのは当然」などと言います。それが愚かなのは、 日本を心配してより良くしたいという苦言が存在することを想像できないということももちろんありますが、さらに根本的問題があると考えます。 それは、日本を「好き」「嫌い」という、ごく単純化した感情でしか、対象を捉えられていないということです。 「日本」という、空間的にも時間的にも複雑で多様な存在は、「好き」「嫌い」などという感情で簡単に把握できるような安直な対象ではありません。 「好き」「嫌い」で「日本」を語れ、それで「親日」「反日」に世界を分けられるという、あまりにも単純化した認識は、「日本」という対象をきわめて安直に扱い、その深みを考えていないことを意味します。 つまり、これほど「日本」を軽く扱ってバカにしたことはないのです。 ことに日本に生まれ育つという運命を負わされた人間にとって、「日本」という存在は圧倒的なもので、それをどう捉え向き合うのかは極めて大きな問題です。 巨大な存在に打ちのめされないよう自己を保つのは大変です。「好き」「嫌い」なんて言って済ませられるようなことじゃないんです。 捉えきれないほど巨大な存在である「日本」(他の国でも同じですが)を、「好き」「嫌い」と言える立場と思っていること自体が、むしろ自分を何様だと思っているのか、神様のつもりなのかと、私は不思議でなりません。 そのような言葉遣い自体が、「日本」を実は軽んじている証なのです。 だから、「反日」を濫用する人が大事に思っているのは実は「日本」ではないのです。他人に「反日」と投げつけることで自分たちがエライと思おうとしている、好きなのは自分だけなのです。 自分が好きなこと自体はむしろ大事ですから、どうか他の手段でそれを実現してほしいと思うばかりです。
|