- 木村政彦はなぜ 2 [無断転載禁止]©2ch.net
757 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/05/29(月) 09:08:21.50 ID:Oh6avb//0 - >>756
シャープ兄弟の場合はジャケットマッチではないので苦戦すると思いますね。 力道山対木村政彦戦の対戦直前に二人の戦いに対して プロ柔道出身、木村とともに海外遠征をし、 柔道時代満州の虎と呼ばれ全日本プロレスのトップであった山口利夫のコメント。 柔道着がなければ山口利夫が木村・力道山戦で予想したようにシャープ兄弟にも苦戦するでしょう。 「木村の寝技は柔道着があって初めて充分に効果が発揮できるもの。 柔道着を着た場合と裸の場合では、いくら七段でも三段の実力しか出せないのではないか。 木村がこのハンディをいかに克服するかがカギとなろう。 木村は逆を取るか、寝技に相手を持ち込みフォールを奪うことを狙おう。 もっとも相撲出身の力道山は裸で有利と見られるが、まわしがないため相撲の投げが使えない。 しかし、体力と腕力を利した空手打ちを持つことは強み。 これが決まれば木村は脳震盪を起こして再び、マットに立ち上がれないでしょう。 力道山に七分の利があるとみる」
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759 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/05/29(月) 10:40:06.39 ID:Oh6avb//0 - 同じく、1967年文藝春秋 木村政彦「柔道日本一だった頃」 からの抜粋 その2
この1967年文藝春秋での記述は引用ばかりの実際の木村を知らない増田本と違って本人が語った言葉なので重みがありますね。 http://blogs.masoyama.net/?eid=280 オリンピックを前にして、ヘーシンクを倒す会とかいうのに招かれたことがる。 天理大の道場で稽古するヘーシンクを、柔道界の幹部や一流選手がとまいて見ている。 「見ているだけじゃなく、候補選手は出ていって彼とやってみたらどうか」 と私はいった。 「いや、大事な持ち駒だから、稽古でやられたとあっては希望がなくなる」 というのが幹部の答えだった。 最後まで候補選手は稽古に出なかった。 「本番に勝機をつかむための稽古じゃないか。 そんなことをいっていると、負けるぞ」 私はそういった。 結果はその通りになったのである。 このときの稽古に、八幡の古賀というのが出ていった。 内股の切れ味で鳴る選手である。 古賀は盛んに内股で攻めるが、ヘーシンクは一向に動じない。 そのうち、 「ちがう、ちがう」 といいいざま、古賀に内股の手本を教え始めた。 これが面白いようにきまる。 内股で鳴らした古賀が内股で投げられている。 次つぎに挑戦する日本選手を散々に投げとばしたヘーシンクは、鼻歌を歌いながらひきあげていく。 〽なにがなんでも勝たねばならぬ。 村田英雄の「王将」だった。 そのうしろ姿をみながら、私は口惜しいともなんともいいようのない思いにかられた。
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760 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/05/29(月) 10:41:18.07 ID:Oh6avb//0 - 同じく、1967年文藝春秋 木村政彦「柔道日本一だった頃」 からの抜粋 その3
http://blogs.masoyama.net/?eid=280 いまの選手は総じて持ち技の数が少なすぎる。 内股なら内股一本やり。 これではせっかくの技も死んでしまう。 私ならヘーシンクに、いろいろ技を休みなくかけてみる。 オリンピックのヘーシンクをみながら、私はここであの技、あそこでこの技……スキをいくらでもみつけることができた。 ヘーシンクの巨体に、日本人はついにかなわないのか。 かつて私が倒した松本安市、伊藤徳治らはヘーシンクに負けない体軀の持ち主だった。 その彼らが私より小さく見えたものである。 要は気力の問題なのだ。 努力と工夫いかんで、ヘーシンクを倒すことも可能なはずである。 あの巨体の一瞬のスキを捉えて、ヘーシンクをみごとに横転させるほどに自分を鍛えてみようとする若者はいないのか。 やればやれるはずなのだ。 人間は死に臨んだとき、一生を振りかえってみるときく。 そのとき、精一杯に生きた、という確信がもてなかったら、さぞかし淋しいだろう。 私には、精一杯に柔道をやった、という思いがある。 自分のすべてを柔道に賭けてみようという若者は、当節、いなくなったのだろうか。
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761 :名無しさん@一本勝ち[]:2017/05/29(月) 11:01:45.88 ID:Oh6avb//0 - 同じく、1967年文藝春秋 木村政彦「柔道日本一だった頃」 からの抜粋 その4
http://blogs.masoyama.net/?eid=280 牛島先生から、私は背負い投げ、大内刈り、寝技をひきついだ。 そのころ警視庁に大谷晃という人がいた。 中学のころ、私の評判を聞いてやってくる講道館や武専の専門家とわたり合って、私は五分の戦いをしていた。 で、上京にも相当の自信をもっていたが、この大谷先生には子供のように投げられた。 世の中には強い人もいるものだな、とただただ驚かされた。 五尺二、三寸で二六、七貫。 肥満体にみえるが、鍛えに鍛えてゼイ肉はない。 背が低いから重心が安定している。 岩のような人だった。 この人から背負い投げ、足払い両方、左右釣りなどを習得した。 拓大予科一年のとき、全国五段選抜リーグがあった。 これに出場した私は、警視庁の猛者・大沢貫一郎に投げ飛ばされ、脳震盪をおこした。 ついで武専四年で当時は東京で敵う者がないといわれた阿部謙四郎に、思うようにふりまわされて敗れた。 ======== 強豪と戦い負けた事もあったが真夜中にかけての松の木の中での大外がりの特訓のあとは公式戦で負けた2人も倒しています。 ================ 帰郷を思い止まってから一年、私は拓大対警視庁の試合で、大沢貫一郎を今度は逆に思うさまあしらった。 ついで講道館へ稽古にきていた阿部謙四郎をとらえ、羽目板に十数回叩きつけて溜飲を下げた。 このときの稽古は両者とも熱して、喧嘩みたいだった。 私が公式戦で負けたのはこの二人だけ。 あとは何百試合とやったが、負けを知らない。 昭和十二年に最初の日本選手権をとった。 このときに当った中島正行、これはつよかった。 生涯の相手のうち、一番手ごわかったと思う。 互いに壮絶な技の応酬となり、数段低い場外に落ちること数度。 頭はコブだらけ、体はアザだらけの凄い試合だった。 もっとも印象の深い試合である。 十五年の天覧試合での優勝は、学生生活の最後を飾るものだった。 このときに当った広瀬巌、これもつよかった。 彼は戦後に醍醐を投げている。
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