- 意拳と太気拳の相違スレッド!
630 :名無しさん@一本勝ち[]:2012/11/16(金) 14:30:59.88 ID:ughSj3FG0 - 中国語でターレンと言うらしいが、「大人」大きい人という意味らしい。(聞いた話なので正確ではないが)
澤井氏はたまに「ターレン」という言葉を使うことがあったらしい。 懐の深い中国の歴史感が現れてる言葉だと思う。民間の中に、あの人はターレンだと言う価値基準があった。 勝手な感想なので自信はないが、日本語の「器が大きい」とはニュアンスが少し違う感じが個人的にするな。 歴史の大きな流れの中で、「個」の価値観では測れない風情の人に使ったんだろうな。 測れるものはたいしたことない、みたいな望洋な感じの価値観は、昔の中国にあったんだろうな。 また、そんなターレンとしての王向斎にも、澤井氏は触れた訳だろ。 だって、郭雲深の弟子でありながら、中国の武術の革新目指し、中国全土の名人との交流手合わせを求め旅をし、 混迷深い時代状況の中でありながら日本人である澤井氏と深い絆を築く。まさしく武術の達人というより「ターレン」という言葉がふさわしい。 澤井氏が強いか弱いか、私は知らない。 ただ、歴史さえも相手にしてねじ伏せようとする正しく巨人王向斎に対して、 日本に帰国してからも道場を持たず、だた一人で立禅でという手法を信じて、晩年でさえ近づこうとした男。 ちっぽけな言葉で評したら、自分が恥ずかしくなるよ。
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633 :名無しさん@一本勝ち[]:2012/11/16(金) 15:50:38.07 ID:ughSj3FG0 - 明確なニュースソースの中で話を組み立てないと、カレー味のウンコになっちゃうからね。
機運というか、流れというものが、大人社会にはあるんだね。そんなものは関係ないという考え方も 一方であるにはあるが、立場や責任がどうしても伴っちゃう大人社会では、 大人が軽はずみなことで動くには、難しい面が発生しちゃう。 双方が現場で発生するいろいろな事態に対して、責任と覚悟と柔らかに事態を収集するコミニュケーションが ないと、剥き出しの事実ばかりじゃー、無意味な風説な、誤解した噂が生まれるだろ。 開拓者・エクスプローラーである王向斎や澤井氏はいいよ。強いからいいよと言うアニメみたいな話じゃなくて、 ある意味、社会の中に「異」を唱える突破者だからな、お二人は。 受け継ぐ者は突破者とはまた立場が違ってくるだろ。 そんな責任感なんか関係ない。という言い切ってくれるのなら、 その「心意気」は、嫌いじゃないよ。今はやりの「イノベーション」ということだから。 イノベーションは自発的なものであって、強要するものじゃーないんじゃね。
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634 :名無しさん@一本勝ち[]:2012/11/16(金) 17:30:26.41 ID:ughSj3FG0 - 意拳と太気のことについて考える時、「ことの本質」は意外に技術的なことではないと
言う見方も大切であるように思う。議論を誤魔化すつもりはない。 王向斎の弟子たちそして澤井氏の周りに集った弟子、と言ったいわゆる歴代の師弟関係は、 変な書き方になるけど、弟子は勝手に師とし、師は師で勝手に弟子を放置する中で、いつしか 自然に詩的な絆を伴った師弟関係を育んだ。そういう意味では、両師とも学校的・部活的な時代の人じゃない。 現代人からみれば、真面目とは正反対の、狂気を含んだ時代の人間の臭い人たちだ。だからこその自由の風がそこにあった。 そんなお方たちの師弟関係を次の時代の方たちが、私たち現代の部活的、カルチャーセンター的、学校文化が基本の中で 現代人として「真面目」に向き合い葛藤することは、ホント想像を絶する現代という時代とのズレに無意識に遭遇することかも知れない。 それは厳しいとかを感じる感じないの話ではなく、「責任感」が「理論の整合性」の流れとして現れたり、それはそのまま、 技術を深める現場の空気に影響するだろう。、真面目さが理論やシステムの補完を促したりすることがあるかもしれない。 もしです王向斎や澤井氏から、わしらと比べて一番に、「狂気」が足りないと言われたら、笑うしかない。 現代の中で、体育会系的でもない、また組織武道の秩序的でもない、詩的な師弟関係を構築することが、 それがそのまま高度な技術を伝承することに直結する武術である、また武術が本来そう言うものと言うなら 一行も批評する文章など書けるものではない。(そうじゃなくても2ちゃんでたわごとしか書けないが) 確か、親鸞は「わたしは師匠なんかじゃない」と言い、弟子に「念仏を唱えれば浄土に行けるのですか」と聞かれれば、 「そんなことは知らない」「わたし法然先生を信じているだけで、それでだまされて地獄に行っても構わない」と言ったという。 そして、弟子たちを御同胞、御同行、と同じ道を歩むものとして同格に接したという。 多くの太気の師範の方がたは、いっしょに歩んで行こう、時には道草しながら、茶目っ気な狂気も含め、 沢井氏以来の何か大きな、自然・じねんな流れを大切にしておられるように見える。 その王道はいつの時代であっても変わらないものなのだと、思う。
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