トップページ > 武道・武芸 > 2011年05月12日 > ZjVBOR890

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名無しさん@一本勝ち
【骨法】掌打とは何だったのか?【喧嘩】
骨法家・小柳津弘とは何だったのか?

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【骨法】掌打とは何だったのか?【喧嘩】
318 :名無しさん@一本勝ち[sage]:2011/05/12(木) 12:40:10.35 ID:ZjVBOR890
『一元四法』に関する前後の部分を確認してみた。柔術的なセオリーと違うのは
立ちの抑えが入っていることくらい?ヒゲの人によると今までにない画期的な方法論とのことなんだが。


『骨法の完成』
P20
・『四法』とは、格闘技の当(打撃技)、逆(関節技)、投(投げ技)、絞(絞め技)の四つを指し、
『一元』とは、これらの多種多様な技を、簡潔にまとめる根本の技法、「抑えの技」を指す。
簡単にいえば、『一元四法』はバラバラになっている個々の技を統一、集約する教伝学習法なのだ。
 また、それを可能にしたのが『一元四法』の骨子たる部分をになうため、私が新しく取り入れた
「抑え」(立ち技、寝技による抑え技)だった。

P21
・そうした状況に、どのようにでも対応できるよう作られたのが『一元四法』の戦術であり、
その中心に抑えの技をもってきたのは、ホイスの馬乗りパンチに触発された私が、不動打ちを
より発展させた結果だった。
 いずれにしろ、『一元四法』の方法論は、いままでにない画期的なものであり、この理論があったからこそ、
私はこれをより発展させた形であとで述べる武道制試合へと到達することができることになったのである。
【骨法】掌打とは何だったのか?【喧嘩】
319 :名無しさん@一本勝ち[sage]:2011/05/12(木) 13:31:02.18 ID:ZjVBOR890
どっちかというと今では語り草になっているのは小柳津選手の方なんだが、完全黙殺した創始師範w


『骨法の完成』

P22
果敢に他流試合に打って出る

・96年に入ると、日本でも盛んにバーリトゥードの大会が行われるようになり、 ブラジリアン柔術の強さは、
すっかり一般にも知られるようになっていた。こうした 傾向は大いに私と選手たちの血を騒がせ、骨法のレベルが、
いまどの段階にあるのか を試したくて仕方なくなってきた。『一元四法』の技術を選手たちが学びはじめて、まだ
二年半足らずではあったが、七十年以上の歴史を持つブラジルのバーリトゥーダーに どの程度、通用するのか、
実験したくなってきたのである。

・その点、私に多少の逡巡がなかったかといえば、ウソになる。そんな私にとって、大いに勇気を与えてくれたのが、
嘉納治五郎師範の、
「乱取りには負ける覚悟が必要である」
 という言葉だった。この言葉の持つ意味の深さに私は強い感動と刺激を受け、嘉納の言葉に背を押されるようにして、
他流試合に臨むことを決意したのである。
 96年8月4日、骨法は「UVF大会」に大原、小柳津の両選手を送り込んだ。この大会、いまでも語り草になっているのが大原と
ブラジルのペドロ・オタービオの一戦である。
(※以降、25ページでUVFの話が終わるまで、小柳津の試合への言及一切なし)
【骨法】掌打とは何だったのか?【喧嘩】
320 :名無しさん@一本勝ち[sage]:2011/05/12(木) 13:34:43.59 ID:ZjVBOR890
大伴古麻呂の元ネタはここでしょうか?


http://www.misogi.org/tenshin.htm

尾張天心古流拳法


【 沿 革 】

尾張天心古流拳法は上野家伝の太古流を淵源とする。
流儀の発祥に就いては次の如く伝えられて居る。
大伴の久米部として皇居侍衛の任に世々奉仕した大伴氏の裔、大伴古麻呂は
孝謙帝・天平勝宝六甲子年六月(西暦754年)に唐僧・鑑真ら8人を伴い帰国したが、
鑑真の弟子の思託鑑禎と言う僧に拳法を講ぜしめ、家伝の体術にこれを加えた。
骨法家・小柳津弘とは何だったのか?
629 :名無しさん@一本勝ち[sage]:2011/05/12(木) 14:29:43.66 ID:ZjVBOR890
*「おやいづが やりたいのは どっち じゃな?

→ようじょ
 じょしこうせい
【骨法】掌打とは何だったのか?【喧嘩】
323 :名無しさん@一本勝ち[sage]:2011/05/12(木) 19:26:17.73 ID:ZjVBOR890
1200年の骨法が一ヶ月総合習ったキックボクサーに1分で完敗w
【骨法】掌打とは何だったのか?【喧嘩】
329 :名無しさん@一本勝ち[sage]:2011/05/12(木) 22:12:32.44 ID:ZjVBOR890
『骨法の完成』には骨法伝説は幕末の水戸学の影響で作られたフィクションである可能性が高いとか
言い訳している程度で幕末の志士とかは触れられていないよ。堀辺が自分の先祖らしく祭り上げているのは
堀辺土佐という人物。

『換骨拳入門』
・さて、天正時代に至り、十九代佐竹藩公・義重公は、換骨拳の総てを一族堀辺土佐源頼信に伝授しました。

『武士ズム』
P237
堀辺:元禄15年(1702)年、赤穂浪士が討ち入った年に出た「新編常陸国誌」には 、「大山因幡守の家臣に堀辺土佐と云う者あり。
天正、慶長(の時代)なり。 佐竹氏羽州に移る時止て、○○郡××に住す子孫今に存するとあるも現在△△△に存す……」 とあって
徳川家が水戸に転封されてくる以前から骨法は伝わっていたと、父に教わりました。

『新編常陸国誌』 巻九 氏族 本貫未定
[堀邊] 所出詳ナラス、大山因幡守ノ家臣ニ堀邊土佐ト云者アリ、天正、慶長ノ人ナリ、
    佐竹氏羽州ニ移ルの時、止テ○○郡××ニ住ス、子孫今ニ存ス

堀辺氏は佐竹氏の本姓である源氏の項目ではなく本貫未定のところに入れられている。
よくわからないが原文にはない△△△なる地名が堀辺の発言には足されてるんだよな。なんで伏せたかというと
その「堀辺土佐」の本物の子孫らしい人がそこに住んでるから。ちなみに『新編常陸国誌』について↓

http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/07_jiten/nakayamanobuna.htm
>中山信名  1787〜1836
>石名坂村(日立市)の郷医の生まれ。国学者。塙保己一に学び,のち旗本中山家の養子になりました。
>代表的な著書「新編常陸国誌」は,、

元禄15年(1702)年、赤穂浪士が討ち入った年に出たどころか、その著者は赤穂浪士が討ち入ったはるか後に生まれていました。
これも天然理心流のときと同じく立て板に水で語られたウソ薀蓄w


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