- 【こいつが出てくると】大島丈20【全てが台無し!】 [無断転載禁止]©bbspink.com
822 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:31:15.86 ID:1He9NVwd - (1)【神道とイエス】
仕事が多忙で久しくここにも来られませんでした。 久しぶりに来てみれば、日本人として看過出来ない恥ずべき投稿が目に入りました。 神道に対する誤りだらけの認識。 無知識のまま神社を語ってしまうために起こる歪曲。 このままの状態で生きていくと恥ずかしい思いをするのはあなたです。 老婆心ながら神道について少しレクチャーさせていただきますので どうか今後のために学んでください。 まず、あなたは「お払い」などと恥ずかしい誤記をしています。 音でしか認識しておらず、その意味をしっかり考えてこなかったからこういう間違いが起こるのです。 「おはらい」とは「お払い」ではなく「お祓い」です。 では、そもそも、その「祓」(はらえ)とはなんでしょうか? あなたはここで第二の間違いを犯しています。 「祓」というと宮司か何かが金を貰って厄を祓うものとばかり想像しているようですが、 本来、古神道にその意味はありません。 まず、ここで最初に断っておかなくてはならないのは、 大島丈は現在の形式ばかりの神道を信奉しているのではなく、 古神道を研究し長く信奉しているいうことです。 ここを間違うと迷路に迷いこむこととなります。 これはキリスト教でも仏教でも言えることですが、 年代を経るごとに原始キリスト教、原始仏教から遠ざかり全く別物となっていく経緯があります。 あなたは、その歪んだ現代的な神道を想像して発言しているようですね。 否、その現代神道の知識すら無いままに、 あなたは神道とキリスト教と大乗仏教をちゃんぽんにして解釈してしまい、 それ故に倒錯した思考に陥ってしまっている状況ですが、 少なくとも大島丈が信奉しているのは古神道だということは覚えておいてください。
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823 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:33:07.62 ID:1He9NVwd - (2)【神道とイエス】
古神道における「祓」は 神を迎え、神と交流するための準備として、 罪や穢れのない清浄な空間をつくりあげることを指します。 簡単に言うと、「穢れ」の状態のときは、神とは交流が出来ないということです。 穢れた状態で、神と交流する行為は御法度中の御法度であり、神を怒らすこととなります。 だから必ず「祓」が必要となってくるわけです。 現代でも神社で手水舎にて手、口を清めるのはその風習からなのです。 なにか厄を取り除いてもらうために、宮司に加持祈祷をしてもらうことを 「お祓い」と思ってしまうのは、とんだ過誤であります。 大島丈は神との交流のために、当たり前の準備として心身を清める「祓」をしているのです。 事実ご覧ください。 彼は三峯神社を詣でる際は、正装をしているではありませんか。 https://imgur.com/qoYo3FF.jpg
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824 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:35:08.41 ID:1He9NVwd - (3)【神道とイエス】
さて、では神道における「穢れ」とは何を指すかということになります。 「穢れ」とは辞書的には[」忌まわしく思われる不浄な状態、理想ではない状態]のことですね。 神道において「穢れ」とされる代表的な対象は、 死・疫病・月経(血)・病気・近親相姦・ 獣姦・女性・怪我・蠱物(まじもの)・ ならびにこれらに関するもの となります。 現代の社会通念では受け入れられないものもあるかと思いますが、 通念というのは時代によって変化する可変のものであり、あてにはなりません。 一方、宗教思想とは不変であります。 話がそれましたので、元に戻します。 「穢れ」の中には当然SEXがあります。 SEXした後は、神との交流は出来ません。 ですから、大島丈は必ず神社を詣でる際は、2週間SEXを断ちます。 これは体内の毒物はおよそ2週間で排泄されるというところからきています。
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825 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:36:24.73 ID:1He9NVwd - (4)【神道とイエス】
また、【我欲】は「穢れ」なのです。 従って自分の幸せを願うことも「穢れ」であり、禁忌事項となっています。 本来、古神道における神との交流は、【全生命体の幸を願う場】であり、 自分の欲を願う場ではないのです。 我欲を願った瞬間、神は立ち去ります。 もし、我を願う場合は、成長を願うことのみ許されます。 己が成長し、地球のためになるのなら、我を願えるわけです。 ここまで説明すれば、大島丈がお祓いを受けたなどという作り話が、 いかに稚拙なレベルのものかお分かりいただけることでしょう。 実際に、ここで当該の大島丈のツイートを、改めて見てみることといたしましょう。 @joe59681 3月22日 インスタストーリーズでくるくる回ってる動画挙げたけど、今年も三峯神社に行ってきたぜ? おみくじも最の幸でありがとうございましたー だがしかし。 花粉を受粉してクシャミ止まらず… そして御神木から氣をいただいてきました。 この動画を観てくれたみんなにも、もれなくいい事ありますように
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826 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:37:47.18 ID:1He9NVwd - (5)【神道とイエス】
大島丈は実際のところ、宮司のお祓いなど全く受けてもいないのに あなたは、勝手な願望から嘘のストーリーをでっちあげています。 これは大変罪深いことことであり、神は決して黙認しませんよ。 よく覚えておいてください。 このツイートでも、大島丈は言っていますね。 「もれなくいい事がありますように」と。 まさにこれが、大島丈が我欲抜きで、人類の平和を祈っている証拠ではありませんか? 大島丈が古神道を信奉していることが良く分かる一文ではないでしょうか。 このように、古神道の思想を持つ大島丈が、現代的なお祓いを無闇に受けるわけがないではありませんか。 後で触れると思いますが、大島丈は現代的な宗教の在り方に対しては憤怒を感じているのですから。
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827 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:39:57.41 ID:1He9NVwd - (6)【神道とイエス】
さて、ここでもうひとつ整理をしておかなければならないことがあります。 それは「何故、大島丈は頻繁に三峯神社に行くのか?」ということです。 その大きな理由のひとつに、 日本民族の祖神である伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉册尊(イザナミ)が主祭神であるということが挙げられます。 彼は常から日本人であることに誇りを持ち、 日本を愛し、日本の反映を願っているのですから、 自らのルーツである伊弉諾尊、伊弉册尊に逢いに行くのは当たり前のことでしょう。 彼は本来、高千穂にも足繁く通いたいし、出雲大社にも詣でたいと常々吐露していますが、 さすがにちょっと空いた時間に気ままに行ける距離ではなく、 そういう意味でも、近場の三峯神社を好んで訪れているわけです。 彼は、時間が無い時でも、東京の神社に詣でていることは有名な話です。 しかし、決して散歩がてら気軽に詣でるような失態はいたしません。 彼は常に神社を詣でる際は正装ですから。 ここを心得ている日本人は中々いないでしょう。
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828 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:41:04.76 ID:1He9NVwd - (7)【神道とイエス】
実際、彼が三峯神社を詣でた際の画像を見てください。 ご覧の通り、正装ですね。 https://imgur.com/vZdRfbz.jpg しかも、わざわざ日本武尊(ヤマトタケル)の像の前で写真を撮っているのです。 これは大いなるメッセージが含まれています。 さらに驚かされるのが、この時、なんとも意味ありげに「大の字」のポーズをとっているのです。 https://imgur.com/IEF6Cqi.jpg 日本武尊と大の字のポーズ・・・・ ここまで来ると、偶然では片づけられません。 ここに彼の暗号が隠されているのです。 「大」とは宗教的に見て2つの意味があるとされています。 ひとつは「魔除けの象徴である五芒星を表す」ということ。 もうひとつは「大」という字は、分解すると、 「一」と「人」であり、 つまりは一人一人の無病息災を願うという意味が隠されいます。 「大文字焼き」もその願いから行われています。 つまりは、大島丈は、三峯神社の創建者である日本武尊の前で、 全人類の無病息災を願い、自らが五芒星となると宣言しているのです。 まさに古神道の教え通り、「生命体の幸を願う」ために詣でたことが、これでお分かりいただけましょう。 ここで本来は「大島丈が五芒星になるということはどういう意味か?」についても 語らないとなりませんが、これを語るとあまりに長くなってしまいます。 今回は、あくまでも神道についてのみ語ることといたします。
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829 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:43:09.02 ID:1He9NVwd - (8)【神道とイエス】
され、ただもうひとつ大島丈が三峯神社を選ぶ理由があるのです。 先程、三峯神社の御祭神は日本民族の祖神である伊弉諾尊、伊弉册尊と言いました。 しかし、これは伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉册尊(イザナミ)の子孫であるところの 日本武尊(ヤマトタケル)が創建したものであり、 元来は三峯山は狼を御神体としているのです。 後で説明しますが、 本来、日本はアニミズム思想がアーキタイプであり、全ての自然現象を神とするのだから、 狼を御神体とする山があるのは当然なのです。 しかし時代が進み、科学によって思考が歪み、 日本全国にある三峯神社は「狼を神として祀る三峰神社は邪神だ」という批判を受け 三峯神社は激減していくこととなります。 大島丈は、この中身が稀薄となり、歪みが生じてしまった形式ばかりの神道、 また、形式ばかりのキリスト教ではなく 古神道、原始キリスト教こそが人類の救いであり、立ち帰るべき拠り所なのだという信念を持っているのです。 そのため、三峯神社へ狼の御神体に逢いに行くわけなのです。 これは彼のアニミズム思想の実践と決意表明なのです。
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830 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:44:11.69 ID:1He9NVwd - (9)【神道とイエス】
あなたは、「神」という言葉を遣っていますが、 どうも一神教の「神」で神社を語ってしまっていますね。 キリスト教やイスラム教などの一神教に対し、 神道は八百萬神(やおよろずのかみ)であり多神教なのです。 一神教は絶対の力を持つ神であり、あなたが言うところの「見放す神」です。 一方、神道はアニミズムであり、自然崇拝が主で「見放す神」など存在しません。 あなたは大変な心得違いをしています。 もう一度言いますが、日本は古くから自然崇拝なのです。 言葉を換えると精霊崇拝、アニミズムとなります。 日本人は、山、田、稲、川、海、土、風、このような自然を「神」としてきました。 山の神、海の神、空の神、という具合に神がいっぱいいるから八百萬神(やおよろずのかみ)と呼ばれるわけです。 日本人は、自然現象全てを「神」としてきました。 自然の摂理そのものが「神」であり、 災害も含めて、それが神の法則と考え生きてきました。 自然が主ですから、本来、神社参拝というものもなく、 形よりも心の方を大事にしてきました。 元々、神道に神社などなく、自然を信仰の対象にしていたのです。 たとえば磐座(いわくら)と言って石を信仰の対象にしてきました。 石は神が降臨する神体というようことで、磐座と呼ばれるわけです。 その後、神社が出来、 徐々に人々の認識に誤りが生じてくるようになります。 これはキリスト教でも言えることで、 イエスは「偶像崇拝」を禁止していたにも関わらず、 やがて教会が出来、像が出来、それを信仰の対象にしてしまい、 原始キリスト教から遠くかけ離れていきました。
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831 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:46:00.39 ID:1He9NVwd - (10)【神道とイエス】
日本人のDNAには自然崇拝が根付いていますから、 津波が来ても日本人はその海を憎まず、またその地に住もうとする。 これは海外の人からは本当に不思議がられる現象のようです。 「海は時に残酷である。しかし海は私達の帰る場所。」 とは、震災に遇われた方の発言ですが、 まさに日本人が常に自然の神とともにいる生きているという心境を見事に表現しています。 人間は自然の中の一生命体であるということです。 そこに幸、不幸という概念はありません。 不幸の中にも幸があり、それが人生。 仏教は死を苦とする。 キリスト教では「人は生まれながらにして罪人」とする、 しかし神道は全てに苦はなく、罪は無いとする。 そして、あなた方が決定的に間違っているのは 宗教とは選ばれた人のためにあるのではなく 「貧しき人々」のためにあるのですよ。 イエスキリストは石を投げられイジメられている売春婦を救いました。 神や仏にすがる権利があるのが聖人だけならなんの値打ちがあるのでしょう? 滑稽なのは、自分を棚に上げて、神の名を借りて大島丈を貶めるあなた方の稚拙な性質ではないでしょうか?
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832 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:48:03.10 ID:1He9NVwd - (11)【神道とイエス】
随分前にも述べましたが、大島丈は宗派を厭いません。 たとえば仏教でも神道でもキリスト教でも、これは民族の特製により差異が生じただけであり、 見ている物は同じ物で、それはすなわち「宇宙の法則」を解き明かしたものであると考えているわけです。 私は大島丈を研究するにつけ、イエスキリストの道を辿っているように思えてならないのです。 少なくとも彼がイエスキリストの境地に達していることは否定出来ません。 イエスの有名な最期の言葉 「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」 (主よ、主よ、なんぞ我を見捨てたまうや) は、今日、実に曲解されて伝わってしまっています。 勿論、敬虔なクリスチャン達はこの点の誤信は少ないでしょうが、 これをイエスの絶望の叫び、泣き言ととらえてしまう一般人がいるのです。 これは文章の切り取りによる誤読です。 これは後の言葉につながってきます。 その後の言葉までを一般人は知らず、無知のまま批判してくるわけです。 イエスは息をひきとる直前にさらにこう言います。 「すべてを委ねたてまつる」と。 「神様、なんで私を見放すのですか?」 という嘆きがなければ宗教は始まりません。
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833 :名無しさん@ピンキー[]:2019/11/12(火) 11:50:12.36 ID:1He9NVwd - (12)【神道とイエス】
たとえば、末期癌で愛する人が死にそうになっているとします。 そこで藁をもすがる思いで、あなたは一所懸命お祈りをする。 しかし死んでしまう。 そして「神も仏も無いものか」ときっと思う。 これが「なんぞ我を見捨てたまうや」の心境ですね。 ここから本当の宗教を考え始めるのです。 そして行き着く先が「全てを委ねたてまつる」になるのです。 仏教では「悟り」と言っていますが 難しく考えることはない。 自然と同化し、自然の摂理のままて生きることこそが人生だということです。 「己」という「個」にこだわるから「苦」が生じます。 全てと一体になることです。 「個」で切り離すから「不幸」という言葉が生まれます。 大島丈に災厄が降りかかったと思うのはあなたの想念でしかありません。 現実には自然現象があるだけです。 自然の摂理に従って生きる大島丈は幸せそのものなのです。 大島丈は「全てを自然(神)に委ねたてまつり」 人類の繁栄をひたすら祈っているのですから、神に祝福されている人間なのです。
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