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日出づる処の名無し
★アジアを解放した日本、その尻尾にくっついてきただけの朝鮮人★ Part2

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★アジアを解放した日本、その尻尾にくっついてきただけの朝鮮人★ Part2
242 :日出づる処の名無し[]:2020/09/04(金) 14:18:53.31 ID:u/KVaHxC
しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。
理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、
一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。
しかし、荒井退造沖縄県警察刑務部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、
県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。
続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めたものの、
その後8月10日に出航した第4次の約9,000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあったが、
1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)でまた沖縄県民に不安が広がった。

避難民の子供
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/OkinawaCivilians.jpg
学童疎開船対馬丸を撃沈したアメリカ軍潜水艦ボーフィン
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/48/USS_Bowfin.jpg
★アジアを解放した日本、その尻尾にくっついてきただけの朝鮮人★ Part2
244 :日出づる処の名無し[]:2020/09/04(金) 19:12:28.94 ID:u/KVaHxC
そのため、疎開希望者の間で辞退する者が続出し、出発日に疎開者が集まらず、
疎開船が空船のままで出航することもあるなど、疎開業務が一時頓挫することとなった。

さらには、前任の第32軍司令官渡辺中将がやや神経質な性格で、沖縄県民への講演会などで危機感を煽りすぎて、
かえって恐怖心を起こさせたのに対し、1944年8月に着任した後任の牛島の落ち着いた風格が、沖縄県民に安心感と軍に対する信頼を高めたことや、
続々到着する増援の大軍を見た沖縄県民の間に、日本軍の勝利という希望的観測が広まっていたことも疎開が進まない大きな要因となった。
末端将兵の放言もその希望的観測を強めており、
そのため、住民疎開を主導していた沖縄県警察刑務部長の荒井が第32軍に「軍隊が戦いに勝つ勝つと宣伝するので、住民が動かないので困る。
なにとぞ駐屯の将兵は、景気のいい言葉を慎み、疎開に協力してもらいたい」と陳情している。
その後、皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのはアメリカ軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった。

県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5,586人を含む約80,000人が疎開した。
内訳は、九州へは沖縄本島から約65,000人、台湾へは沖縄本島から3,000人以上、先島諸島から9,000人以上の約12,500人となっている。
3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが、
宮城博は沖縄県の独自調査で一般疎開者が乗船して航行中に撃沈された船舶が32隻と報告されたとしている。

九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、1945年7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。
★アジアを解放した日本、その尻尾にくっついてきただけの朝鮮人★ Part2
246 :日出づる処の名無し[]:2020/09/04(金) 19:44:00.95 ID:u/KVaHxC
1944年10月10日の十・十空襲による沖縄県民の被害は大きく、那覇の市街地の90%が焼失したほか、
県民の1か月分の食糧も焼失、生活必要物資がひっ迫し県民の生活は困窮した。
当時沖縄を管轄していた熊本財務局は、空襲被害による那覇市民の窮状を考慮して、空襲被害のあった地域の租税徴収を2年間免除するという特例を講じた。
また、1942年2月24日に施行された『戦時災害保護法』を適用し、那覇市民の罹災者救援のために現金給付を行ったが、
アメリカ軍により日本本土から沖縄への海上輸送路は脅かされている状況で、現金で購入できる物資にも事欠いており、実質的な効果は薄かった。

沖縄県の経済情勢が急速に悪化する中、1944年12月に軍中央より『皇土警備要領』が示達された。
これは台湾と南西諸島を最前線と位置付けて、住民を戦力化できるものとできないものに選別し、
戦力化できるものは戦闘や後方支援や食糧生産で軍に協力させ、戦力化できない老若婦女子はあらかじめ退避させるというものであったが
第32軍の高級参謀八原はこれでは不足と考え、より具体化した「南西諸島警備要領」を作成した。
★アジアを解放した日本、その尻尾にくっついてきただけの朝鮮人★ Part2
247 :日出づる処の名無し[]:2020/09/04(金) 19:46:13.96 ID:u/KVaHxC
1.およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備及び戦闘に参加する。
2.60歳以上の老人、国民学校以下の児童、ならびにこれを世話するに必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘の予期せざる島の北半部に疎開させる。
3.各部隊は所属自動車、その他の車輌、並びに所属舟艇を以て極力右疎開を援助する。
4.爾余の住民中、直接戦闘に参加せざる者は、依然戦闘準備作業、農耕その他生業に従事し、戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる。
5.県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧や居住施設を準備する。

この要領を作成した八原には「サイパンの二の舞は厳に慎むべき、アメリカは文明国でよもや非戦闘民を虐殺することはないはず。
主戦場となる島の南部に非戦闘民をとどめておけば、剣電弾雨のなかを彷徨する惨状になる」という考えがあったが
この要領により、17歳〜45歳までの青壮男子が根こそぎ防衛召集され戦力化され、中学生や沖縄師範学校の生徒、高等女学校生徒らも、疎開することを禁止され
通信兵や看護婦として軍に協力させられて『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』などに組み入れられた。
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249 :日出づる処の名無し[]:2020/09/04(金) 20:54:41.05 ID:u/KVaHxC
第32軍参謀長の長は1945年1月31日に着任した島田叡新沖縄県知事に、
「南西諸島警備要領」に沿って、半年分の沖縄県民の食糧を確保するよう指示した。
着任早々にも関わらず島田は非常な熱意で食糧確保に奔走し、
2月には危険を冒して台湾に飛んで、台湾米を10万袋確保することに成功した。
しかし、その後台湾と沖縄間の海上輸送がアメリカ軍潜水艦により断絶し、せっかく確保した台湾米も一部しか沖縄に届かなかった。

食糧の備蓄も少なく、また「やんばる」と呼ばれるマラリア発症地の沖縄北部山岳地帯にすすんで避難しようという住民は少なく、
沖縄県の必死の呼びかけや、軍用車両を提供するなどの軍の努力にも関わらず、疎開は遅々として進まなかった。
沖縄県は家畜の餌として豊富にあった甘藷を人用の食糧として転用するなどの策を講じ、
戦闘開始前までに85,000名を沖縄北部に疎開させたが、これは予定の1/3に過ぎなかった。
北部は山岳地帯で耕作地も限られ、さらにはマラリア発症地帯であって、
餓死やマラリアで死者を出すことになったが(沖縄市民の北部での死者は戦闘を含む全ての要因を合わせて約600名)


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