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日出づる処の名無し
【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543

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【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543
977 :日出づる処の名無し[sage]:2013/07/17(水) 10:07:50.33 ID:K+FZKL4Q
>>946
亀レスですが。

こういうのは、一つのキーワードを掘り下げていって、
そんで関連するワードや事象を芋蔓式にひっぱり挙げることで見つかります。
つまり、歴史の年表や歴史地図だけでなく、生活の一端まで垣間見ようという興味が導くんです。

今回のキーワードは『磚』です。センと読みます。
中国史に詳しいなら、古代の辺りで、「画像磚」として出てきたかと思います。

中国には、画像をレリーフのようにつくる技術として、
@彫像、レリーフ。石工の手作り
A青銅器。鼎などに見られる精緻な作り込み。
B画像磚。枠練りの枠に仕込んだり、瓦職人の手作り
がありました。
古代には青銅器が大変よく使われていて、春秋戦国時代までよく出土します。
しかし、秦代になるとパタリと廃って、磚や兵馬傭のような焼き物に取って代わられます。

これにも森林が実は関係していて、森林が無くなったために、
古代中国は「美術・祭祀のための青銅器」を捨てざるをえなかったんです。

中国史をやっているなら、古代の建築文化が秦漢を境に木造から石造や磚に取って代わったのを、
写真資料で見たこともあるかと思います。
黄河は古代には「河」の一字で表され、河といえば黄河でした。
いえ、古代にはあんな赤茶けて無く、湿地帯や川原をもつ、清く緑に溢れた大河だったのです。
【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543
978 :日出づる処の名無し[sage]:2013/07/17(水) 10:09:49.69 ID:K+FZKL4Q
そんな大河のほとりで、黄河文明、いや大河文明が花開いたのです。
二里頭遺跡にみられる夏代の館は、完全な木造で、萱と板で葺いた屋根をもつ、
柱と梁で造られる典型的な木造居館でした。
殷代に入ってもかわらず、安陽の殷虚にみられる城館跡も、屋根が瓦葺きになった程度で、木造でした。
二里頭と違うのは、「土台の基礎工事」が見られる点です。
これは中国の伝統工法『版築』によるものでして、
今も人力だけでできる地盤改良として、アジアで活用されています。
(版築についてはwikipedia参照。昔書いたものですが、皆さんが加筆してくださりよい記事になりました)

版築の工法は大量の木材を使います。
平板の板材と丸太を用意し、枠を作りながら土を入れて固めていきます。
これを数十アールあるような城館の基礎でやるのですから、莫大な木材を使います。
目的の高さまで達したら、枠材を外して完成です。
この工法で、殷王墓や豪族の墓まで造っていましたから、
あっという間に森が消えてゆきます。
周になり、春秋戦国となると、なんと長城ですら版築でつくりました。
今でも万里長城の西方は石でなく版築で出来ています。
戦国時代には野戦陣地にいたるまで版築でつくり、戦火の拡大と共に森が消えてゆきました。
(もちろん版築だけのせいではありません。通常の文明活動の乱伐に加えて、版築で乱用したのです)
【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543
980 :日出づる処の名無し[sage]:2013/07/17(水) 10:15:46.45 ID:K+FZKL4Q
ところで中国の精緻な青銅器は、周辺各国や欧州と比しても段違いの出来です。
迷路のように鼎の表面を埋める渦模様は、明らかに古代を超越しています。
これがどうして出来たか。
それもまた大河の恵みでした。
チベットの山地から、数千`をゆったりと流れる大河は、岩を石ころにかえ、砂にかえ、
そしてついにはまるで粒が見えないほどの微粒の砂に変えました。
これを練り上げて文様の入った金型を作るのですから、精緻にもなるというもの。

しかし、乱伐がたたり、表土が流れ、農業が廃れるとともに、河北の諸国は零落し、秦に掠め取られていきます。
秦王政が革命的人物だった、というのもあるでしょうが、
黄河文明の宿痾が露呈して戦国時代は終わるべくして終わったのです。

黄河に雨と共に土が濁流として流れ込み、豊かな湿地帯と川原は消えてゆきました。
川原が無くなり、青銅器に必要な砂も採れなくなりました。
こうして青銅器の時代は終わったのです。
(いまでも旧河道の下から、この砂が出土します。人工と見紛うほどの美しい砂です。)

戦国時代半ばから青銅器から画像磚に移行し、建材としても磚は多用されました。
秦始皇帝は統一の象徴に、王の道と巨大な王宮を建造しますが、
ここで用いられたのは最低限の柱と梁以外はもはや磚や石でした。
重くなる建物を支えるため、土台となる部分は、秦全土から残り少ない木材を掻き集めて、
人民を酷使して作り上げました。これは今も西安城外に残っています。
同じように始皇帝陵も作られました。
あのピラミッド型の山は、版築で作り上げた数十段の築山です。
こうして秦は、最後の森を伐り尽くし、ついに三代で潰えたのです。
【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543
985 :日出づる処の名無し[sage]:2013/07/17(水) 10:23:52.73 ID:K+FZKL4Q
漢は全土を大乱に巻き込み、わずかな希望をまとめあげながら生まれました。
疲弊のどん底が生んだ平和と安定だったのです。
もはや河北のどこをみても木造建築はありませんでした。
我々の先入観から見れば、磚のような建材は貴族の使うもので、民はあばら家、と思いがちですが、
木材こそ残り少ない高級希少資材であり、一般市民は塗り壁と磚で出来た家にすんでいたのです。
漢代500年かけて、人間の力で荒れ果てた大地をなんとか繕い、漢は反映を極めました。
しかし、人工の自然のうえに成り立つ反映は脆いものです。
反映の奢り、腐敗、怠慢が再び手抜きから大地を荒らし、そして漢の瓦解、
三国志前史の暗澹たる時代に滑り落ちてゆくのです。

中国において河北が隆盛したと思えば、また惨澹たる地獄になるのはこのためです。

こんな感じで、文化とキーワードから歴史をひもといていきます。
ちなみに記憶を頼りに書いたので間違ってたりうろ覚えの箇所があります。
ご注意ください。
【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543
986 :日出づる処の名無し[sage]:2013/07/17(水) 10:26:11.52 ID:K+FZKL4Q
超長大レスすみませんでした
なんか書いたら長くなってしまいました
もったいないので削った上で出しました

スレ最後のほうなのにすいませんでした
【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543
991 :日出づる処の名無し[sage]:2013/07/17(水) 10:55:51.35 ID:K+FZKL4Q
>>989
灌木、という概念が無い、といったらわかりやすいでしょうか
【政治経済】平成床屋談義 町の噂その543
1000 :日出づる処の名無し[sage]:2013/07/17(水) 13:11:26.67 ID:K+FZKL4Q
磚は泥質で、乾かしてから、表面を焼き固める、タタキみたいな作りです。
燃料は草や枝で賄えますが、建材にするほどの立派な木は手に入らなかったのですね


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