- しょうもない知識を披露するスレ 第39幕
7 :名無し三等兵[sage]:2019/09/11(水) 07:52:28.15 ID:3xRURr1Y - 昭和8年8月1日「陸軍習志野学校」が創立された。
地名だけの学校名は、この学校が化学戦の教育、訓練を行う学校であることを秘匿したもので、 学校の幹事はのちにラバウルで名を馳せる、今村均大佐であった。 当時の日本陸軍が試作、保有していた毒ガスを実際に散布し、 ガスマスク、防毒衣を着用した兵が化学戦訓練を行ったが、毒ガスによる負傷者が出ない。 これが逆に、試作毒ガスに外国のものほどの威力があるのか疑わしい、という疑問を抱かせ、 昭和9年5月中旬、群馬県相馬が原で、より実戦的な演習が行われた。 敵がイペリットとルイサイトの混合ガスを散布した地帯を、消毒する時間的余裕がないため、 攻撃部隊は汚染地帯を強行通過して敵陣に突撃、追撃戦ののち消毒作業を行う、という想定で、 攻撃を行う中隊150名は、厚いゴム製の防毒装置で全身を覆う完全防護の第1小隊50名、 薄いゴム製のもので覆う半防護の第2小隊50名、防毒面と防毒手袋だけの第3小隊50名に分けられていた。 演習が始まると、30名の兵が毒ガスに侵され負傷、演習翌朝には東京の第1陸軍病院に移されたが、 演習後6日目に上等兵1人が死亡。 幹事、今村大佐も足に自力で歩けないほどの傷を負い、第1陸軍病院に移されていた。 国産化学兵器に充分な威力があることが、犠牲者まで出した演習によって確認された形となったが、 こののち、昭和11年、2・26事件の折に習志野学校に出動要請があり、 「あか1号」催涙ガスを携行した246名の将兵が鎮圧軍に参加している。 風向きによっては皇居に催涙ガスが流れる可能性があり、気象観測が念入りに行われたが、 使用する前に反乱軍は降伏、催涙ガスの”実戦投入”はされずに終わっている。
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