- 日本の古代史 Part38
976 :出土地不明[]:2019/11/18(月) 21:56:06.85 ID:wC4RkDR7 - 「家屋文鏡」(上記画像・奈良県佐味田古墳から出土)
http://img-cdn.jg.jugem.jp/72e/1453281/20100316_1751046.jpg 伝讃岐国出土銅鐸の表面に描かれた高床建築 http://img-cdn.jg.jugem.jp/c91/2722688/20161009_1070666.jpg 中国前漢時代に雲南省にあったテン王国の高床式住居 http://livedoor.4.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/1/3/13f71938.gif ■倭人の家 「干欄式建物(かんらんしきけんちく)」とよばれる高床式建物(たかゆかしきたてもの)の 形式がある。 屋根の一番上の、棟(むね)の長さが長く、下の、軒(のき)の長さが短い。 そのため、屋根を真横から見るとき、逆さの台形に見える。359-10このような「干欄式建築」は、 日本から遠くはなれた中国の雲南省の石寨山(せきさいざん)古墳出土の青銅製の容器の 蓋(ふた)の上の飾りなどに造形されている。 また、中国の江西省清江県営盤里出土の 家形土製品に見られる。 いずれも、長江流域およびそれ以南の地である。 http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-08.gif いっぽう、わが国でも、「干欄式建物」は、弥生時代の銅鐸に描かれた絵画、 古墳時代の鏡の上に描かれた絵画に見られる。 また、「干欄式建物」の家形埴輪が出土している。 なぜ、遠くはなれた中国雲南省と日本の地で、同じ形式の建物が見られるのか。 http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-10.gif 日本では香川県出土銅鐸の絵画や奈良県左味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に 描かれている絵画、池上曽根遺跡の大形建物の復元、登呂遺跡復元高倉など 日本の弥生時代の家は「干欄式建物」である。 第359回 邪馬台国の会 稲作の渡来(稲作はどこから来たか?) http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm
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977 :出土地不明[]:2019/11/18(月) 22:21:58.53 ID:wC4RkDR7 - ■倭人の鵜飼(うかい)
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-13.gif 地図をみると、「倭人の家」でのべた「干欄式建物」の青銅器の出土した雲南省昆明 の近くの滇池(てんち)の付近も、鵜飼の分布域のなかにはいっていることがわかる。 かりに、「鵜飼」と「干欄式建物」「稲作」とが、可児弘明氏のいう「ある稲作民族の文化複合」 につながるものである。すると、石寨山古墓は、前漢の初期から後漢の初期、 つまり、紀元前202年ごろから紀元後100年ごろには、その文化複合が、 蜀の地の石寨山ふきんまで、およんでいたことを示していることになる。 『古事記』の「神武天皇記」には、 神武天皇軍が「鵜飼で漁をする人々よ、助けに来てほしい」という歌もみえる。 さらに、『隋書』の「倭国伝」に、わが国の七世紀ごろの鵜飼のことを記した記事がみえる。 八世紀成立の『万葉集』では、鵜飼のことが、かなり多く歌われている。 『万葉集』の4011番の歌で、越中の国(現在の富山県)の鵜飼たちのことが歌われている。 4156番にも、富山県の辟田(さきた)の川で、「鵜飼をする歌」がのっている。
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978 :出土地不明[]:2019/11/18(月) 22:26:39.76 ID:wC4RkDR7 - 4187番の歌にも、福井県の叔羅川(しくらがわ)の「早瀬で、鵜をもぐらせて」とある。
なお、可児弘明氏は、さきの『鵜飼』のなかで、 「朝鮮半島に鵜飼がひろまった痕跡はみつからない」と記している。 照葉樹林文化は、共通の文化的要素によって特徴づけられる。 イモ類、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀類の栽培、稲作、絹の製造などを大きな特徴とする。 モチやナットウ、スシを食べ、絹や、漆(うるし)を利用する。麹(こうじ)で酒をつくり、 高床の家にすむ。歌垣(うたがき)や鵜飼の習俗がある。 照葉樹林文化は、ヒマラヤ山麓から東南アジア北部山地、南中国、 日本西部にかけての東アジアの温暖帯に分布する。
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979 :出土地不明[]:2019/11/18(月) 22:43:00.40 ID:wC4RkDR7 - >西日本から多く出土する。舟型木棺は朝鮮北部や沿海州地域から出土するのかな?
●舟型木棺の源流 江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土しているが、実は、四川省の成都市で 約2500年前(春秋晩期〜戦国早期) のものと思われる舟型木棺群が発見されている。 舟型木棺とは丸木を船形に彫って作った棺のことで、舟棺で埋蔵することには 「舟に乗って他界に行く」意味がある。 大きいものは長さ18mを超えるものもあり、 直径1・6〜2mの楠の木をくり貫いたもので蓋もついていたという。 ほかには、大小併せて17の丸太彫りの舟型木棺が確認されたが、 当初はこの他にも多数あったものと推察されている。 規模の大きさから、王の家族もしくは一族の墓であると考えられている。(「考古用語辞典」) 舟型木棺は四川省の巴蜀文化の特色とされるが、 わが国の古墳にも舟型木棺が多数使われている。 構造はくりぬきの舟型木棺が多く、 鏡、鉄剣、鉄刀、良質の勾玉などの副葬品を伴う。舟型木棺の思想もかなり早くから、 長江流域の四川省から江蘇省まで展開していたようである。
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