- 蝦夷の研究
12 :出土地不明[]:2019/09/29(日) 19:52:49.20 ID:mzGpa6Dh - >>3
蝦夷(エミシ)大和王朝から蔑まれますが、 全く違う国。 祖を尋ねれば、それは大和の先行王朝(海王朝〜磯城)の大彦(皇太子)。 かれを古事記、日本書紀はナガスネ彦と蔑んだ。 大和の王家、有力豪族ら同士で覇権争い/権力闘争に明け暮れる中、九州の物部勢が侵攻してきます (「第一次物部侵攻」、、、(ニギハヤヒの降臨。とか、神武東征(の前哨戦)など)) 四国南岸沖から紀伊水道を通り紀ノ川を遡り、 南岸に陣取って侵攻してきた物部勢力を迎撃して一時は追い払う事に成功しますが、 (先行大和王朝側から見て)賊軍(物部勢)は紀伊半島を南に迂回して熊野(新宮)方面から再上陸 。 しかし、大和王朝側の紀伊国造(高倉下命の子孫)らの軍に迎撃、ゲリラ戦を仕掛けられて熊野川上陸の中洲(元熊野本宮の大斎原の地)に孤立化、、、w 大和王朝側が豪族同士で権力争いに明け暮れて一枚岩ではないとの情報を得た侵攻軍側は 大和王朝の副王家、トビ家の分家、大田種彦(大田田根子)に内応、手引きを要請します。 大田種彦は本家のトビ家(大和王朝の副王家/大神(カモ)王家)への対抗心や大和を平定して大王となる野心から外来の物部勢力を引き入れ利用することを考えて、 要請を受諾。 物部軍はトビ家分家大田種彦らの道案内を得て前人未到に近い熊野川沿いから紀伊山地を北進して無傷で吉野に、吉野川/紀ノ川を渡り磐余に無傷で着陣して威勢を張りました。 突然現れた大軍団に算を乱した大和の豪族らは大和を逐われます。 大彦らも抗戦しますが多勢に無勢、北への退却を余儀なくされて 大和を放棄。 大彦は伊勢(伊賀)に新たに王国を建て、、、追撃されて 仕切り直し、琵琶湖東岸に新たに出雲族の信仰に因み三上山を大和の三輪山に見立ててクナト国をごうします。 クナト国がシナに伝わって狗奴国と書かれました。 大彦は出雲王国の東の王家、富(トビ)家に出向き救援を要請しますが、 出雲王国は各地の領地を奪われ、更に九州物部勢力が侵攻準備中との情報を得ていたこと等から 勢力を分散する余裕はないとして申し出を断りました。 出雲の王家は大彦らに北陸方面へ行く事を勧めました。 併せて、富、トビを名乗ることを禁止します。 出雲の往来の途中、藁蛇を神木に巻き付けて荒神、荒ハハキと呼んで祭祀をしていたのを目にした大彦は自らの勢力で新たに取り入れてシンボルとすることを決めました。
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13 :出土地不明[]:2019/09/29(日) 20:09:37.78 ID:mzGpa6Dh - >>12
更に追撃を繰り返し受けた大彦やその子孫たちは一時的に落ち着いた地域に国を建てました。 アラハバキ国、日立国(常陸)、、、最終的に津軽に至り「日之本国」を建て、安東氏を名乗る。 各地の豪族の首長らによる合議制を採用して統治。 渡り島(北海道の古名)や樺太、千島の人々も日之本国に参画していたと言います。 津軽は首都の意味を込めて「日本中央」と呼ばれました。 後世、伊達政宗が日本(日ノ本)将軍といわれますが、そのベースは東北地方が日ノ本国だった記憶が有ったため。
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14 :出土地不明[]:2019/09/29(日) 20:26:52.18 ID:mzGpa6Dh - 東北地方は出雲族がインドからシベリアを経由して渡来した際、
本州には津軽から上陸して、三内丸山(遺跡/後期)にしばらく居留した後に 本隊は日本海側を南下して出雲地方に至りますが、 途中、小さな集団が各地に分離拡散した歴史があり、いわば遠い身内が沢山居たと考えられます。 十三湊は日ノ本国の首都港湾として整備されて大変栄えて居たと言います。 十三湊は出雲王国から禁止されたトビ家(王家(天皇家も旧出雲王国トビ家の血筋(分家)))の音を採ってひねったもの。 富山/トヤマは外山(トビ)から? 鳥海山はトミ山の当て字。
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