- [ルーツ]日本人の起源は?その2
282 :出土地不明[]:2018/11/09(金) 19:49:34.99 ID:43jX8M8l - 辰韓と古代中国人との関係
『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、 『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、 馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。 そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、 この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。 秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、 これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。 そのため自立せず、辰韓人は明らかに流入し移って来た人であるため 馬韓が全てを制していたと『晋書』は記している。
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283 :出土地不明[]:2018/11/09(金) 19:54:56.17 ID:43jX8M8l - 『後漢書』巻85辰韓伝では、以下のように記載される。
耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割其東界地與之。其名國為邦,弓為弧, 賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。 〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに 割譲したのだと自称する。 そこでは国を邦(邦人)、弓を弧(琉球弧)、賊を寇(元寇)、行酒を行觴と称し(回し飲み)、 互いを徒(学徒)と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉
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284 :出土地不明[]:2018/11/09(金) 20:01:26.39 ID:43jX8M8l - 水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、
実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている。 『三国志』魏書巻30辰韓伝に、「名國為邦(訳:国を邦と言う)」とある。 辰韓(秦韓)の民は秦から亡命してきたと言うが、 前漢の初代皇帝劉邦が自らの諱(劉邦)を憚って「邦」を「国」と言い換え、 漢代以後の漢語では「邦」のことを「国」と言うが、辰韓人(秦韓人)は「国」のことを 「邦」と言っており、かかる事実関係により、辰韓人(秦韓人)は秦語を使用していることは 決定的とみられている。
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285 :出土地不明[]:2018/11/09(金) 20:04:08.40 ID:43jX8M8l - 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」 隋の使節団は 「そこの人々は華夏の人々 =(中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。 始皇帝陵、兵馬俑と武人埴輪の甲冑が良く似て居り、墓の回りに土器類を大量配置。 http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/08/77/src_11087751.jpg?1451096009 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/880/67/N000/000/008/144647630137934814179.jpg 新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。 秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「三つ巴(ともえ)紋」 http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html 豊前宇佐神宮、京都の石清水八幡、八坂神社、秦氏に関わる神社(三つ巴紋) http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746155049.html 新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。 黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋) http://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/ 新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初) http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html
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