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LUNAMASK
DNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史2 [転載禁止]©2ch.net

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DNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史2 [転載禁止]©2ch.net
645 :LUNAMASK[sage]:2015/07/22(水) 13:18:53.26 ID:OtrEAKPm
>>631 ですね。弁辰韓/楽浪は秦西南夷で、粘土帯土器は:
https://www.google.co.jp/search?q=%EC%A0%90%ED%86%A0+%EB%9D%A0+%ED%86%A0%EA%B8%B0&biw=1354&bih=615&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0CAYQ_AUoAWoVChMI4PKLqs7txgIVBySmCh1XUQvw
これは大連東方海上小島の遼寧銅剣/甕棺墓遺跡上馬石上層類型(櫛目文晩期-無文早期
平行)拠C14測定,上馬石上層為公元前一二二○〜前一一八○(公元前一四一五〜前一二七○)
年。以上両箇C14数拠具体表明了上馬石上層類型的絶対年代。
三.瓮棺墓D 瓮棺墓経過発掘的有上馬石瓮棺墓地,共十七座。葬具瓮棺均為黒皮陶大壷,
分口向上和倒置口向下両種,后者有的底部被有意識打掉。随葬器物絶大多数是明器,有壷、
罐、椀,其它還有石鏃、骨管、貝珠等,属于双○tuo2子二期文化。
双○子三期文化和上馬石上層類型都与大連地区曲刃青銅短剣遺存有密切的関系。
双○子三期文化的最后帰宿為双房遺存,這在于家村○頭積石墓地已露端倪,双房遺存的
陶壷直接継承了于家村○頭積石墓地的作風。上馬石上層類型的長頚壷、器耳等,也応是曲刃
青銅短剣同類器物的淵源之一。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_553794350101aguc.html
が遅れて南下したもので沃沮でしょうね。
>>632 http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif
弥生墳丘墓の先駆的土敦墓と遼寧瓮棺文化の習合したもの
>>633 南島文化人柱 http://s8.sinaimg.cn/mw690/678be5c6gx6BH7S09Uj87&690
>>634 同感 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)

DNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史2 [転載禁止]©2ch.net
646 :LUNAMASK[sage]:2015/07/22(水) 15:02:00.97 ID:OtrEAKPm
>>631 粘土帯土器はロシアのヴォストレーツォフが述べるクロウノフカ文化の南進としての沃沮
に言及したものですが、ヴォストレーツォフはクロウノフカ文化が先行するヤンコフスキー文化を
押しのけたとしています。ヤンコフスキー文化は貝丘文化であり、縄文と共通するところが多く、
安曇海人族と考えると粘土帯土器文化を日本海、東シナ海沿岸に広げたものとしてぴったり合い
ます。つまり、遼寧・古朝鮮青銅器文化を拡散したのは安曇海人族であり、瀬戸内・大阪湾岸・
大和盆地・東海地方に三韓土器と共に渡来したのが
秦西南夷である三韓人と言うことだと思います。
The second time interval coincides with the beginning of the second stage of adopting of
cultivation in the Eastern Sea Basin near 2400-2300 BP and is connected with spreading of
millet , barley , wheat cultivators in the North-Western (Krounovsky culture from ca. 500 BC
- at least 200-300 AD) and rice cultivators (Yayoi culture ) in the South. Expansion of both
cultures began approximately simultaneously near 3 c. BC. The start of moving can have
been initiated by changing of ecological and social circumstances. After 3 c. B.C. populations
of Krounovsky culture occupied most part of area of Yankovsky culture in coastal zone.
VOSTRETSOV Yuri (Institute of History, Archaeology and Ethnology of the People of the Far
East Vladivostok), "Environment Changes and Migrations: A Case Study"
http://www.seaa-web.org/arc-con-dae-abs2.htm
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649 :LUNAMASK[sage]:2015/07/22(水) 21:06:32.12 ID:OtrEAKPm
>>647
>>647 吉野ヶ里(ハヤヒワケ)に入植したものに後の秦氏、つまり甘粛方面から渡来する石棺葬
文化の羌を含む騎馬民族系民族がいたかどうかですが、考古学的に吉野ヶ里に存在したのは
土敦墓文化の徐戎乃至は呉越民族であり、石棺葬文化の片鱗は見られません。弥生末の
玄界灘・響灘の箱式石棺墓は吉野ヶ里と同族であったというのは難しいが、越人・楚人の
鳥トーテム文化に理解を示す徐福ディアスポラであったのかもしれません。
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650 :LUNAMASK[sage]:2015/07/22(水) 23:09:16.34 ID:OtrEAKPm
>>649 参考情報 >>47 >>51


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