- DNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史2 [転載禁止]©2ch.net
178 :LUNAMASK[sage]:2015/06/19(金) 10:23:56.20 ID:w+6o+gJI - >172-173 吉野ヶ里乃至は馬韓から徐福団員羌戎裔が南下したのでしょう。
>>174 突帯文土器、吉野ヶ里甕棺・及び遼東・韓国南方支石墓はO2b1当地古人以捕魚採貝為生業 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%A3%E6%AD%B7%E5%8F%B2 沿海州シデミでしょう。このO2b1その後日本ではD2に次ぐ人口増を見せますが、おそらくは半島、 列島でブリャート/ツングース系C3の配偶者mtDNAを寝取ったものと見られます。
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179 :LUNAMASK[sage]:2015/06/19(金) 12:26:09.32 ID:w+6o+gJI - >>174
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 突帯文土器と支石墓 伊東義彰 紀元前一六〇〇年頃、遼東半島(遼寧省)から吉林省南部の地域に出現した支石墓は、紀元前 七〜八世紀ごろまで造り続けられたとされています。中国で「石棚」と呼ばれている支石墓は、 地上に板石で四角い石室のような構造物を造り、その上に大きな石を載せたテーブル状の形をして います。地上に高く巨石が聳え、それをささえるように板石で箱形の墓室が築かれています。 西ヨーロッパのドルメンとよく似た形をしており、築造後も出入りできる構造で、複数の人を順次埋葬 できるようになっています。 紀元前一〇世紀ごろに、このテーブル形の支石墓が朝鮮半島に伝播し、紀元前三世紀ごろまで 造り続けられますが、半島を南下するにつれて構造や形状に変化が現れます。 平壌付近の大同江流域には約一五〇〇〇基の支石墓があると言われており、ここの支石墓は 遼寧省と同じテーブル形のもので「北方式」と呼ばれています。 西南部の全羅道を中心とする半島南部には、碁盤形・蓋石形といわれる「南方式」支石墓が二万 数千基あまり集中しており、北部九州に伝わったのはこの「南方式」です。「南方式」支石墓は埋葬 施設が地下に設置され、地表には石が置かれるだけのもので、埋葬後出入りすることができず、 原則として一人しか埋葬できません。 南へ伝播する過程で構造変化を起こした、とされています。 ヨーロッパのドルメンも農耕との深い関係を指摘されていますが、東アジアの支石墓も農耕の 伝播と無関係ではなく、朝鮮半島への伝播は同時に水稲農耕を伴ったとされています。同じことは 日本列島についても言えるわけで、支石墓という墓制を持った人々が水稲農耕とともに、弥生早期・ 紀元前五世紀初めごろに北部九州へ 伝えたものとされています。 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
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180 :LUNAMASK[sage]:2015/06/19(金) 12:26:36.52 ID:w+6o+gJI - >>179
これについては中国も >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 前1500年~前1000年 相土従今遼東一帯移居河南商丘,開辟了蓬莱至大連航線。至帝辛時期,大連地区社会已転化為 方国,以双陀子遺址為例,該地区已深受山東岳石文化影響。商末時期,遼東半島出現大量石棚, 併出現大量墓葬器具,其中反映当地古人以捕魚採貝為生業,併逐歩転為農耕与畜牧業等。 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> つまり、まず山東から岳石文化の移動があり、これをうけて現地遼東貝塚漁労民が支石墓文化に よって農耕民化する・・・と言うプロセスがあるが、箕子朝鮮伝説と軌を一にしているとみられます。 日本で横行する日ユ同祖論の源流、支石墓の盛行した中東から華北に民族移動があったと思い ます。 ロシア考古学によりドナウ方面からカザフスタンに突帯文土器文化が急速に移動している事実が あります。
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181 :LUNAMASK[sage]:2015/06/19(金) 12:53:01.97 ID:w+6o+gJI - >>173
水口他2007に基ずくYDNA %の推定原民族 西日本 沖縄 O2b* 9.3 3.4 貊 O2b1 26.8 19.5 安曇 --------------------------------- N/O 1 2.3 夜郎布依 O1* 4.1 1.2 テン越 O2a* 1 1.2 句町ダイ O3LINE1del/M159 5.2 4 テン越(畭) O3/-002611* 2.1 6.3 板楯蛮(土家苗) O3021354*/P201 6.2 5.7 板楯蛮(土家苗) O3e*/M134 5.2 2.3 昆明叟(青羌) O3e1*/M117 5.2 2.3 昆明叟(青羌) 上記は先ず吉野ヶ里で成立した突帯文土器裔安曇を中心とする民族が沖縄、西日本と分岐して 移動した結果であることを示しています。
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182 :LUNAMASK[sage]:2015/06/19(金) 13:28:00.48 ID:w+6o+gJI - >>181
しかし、 O3/-002611* 2.1 6.3 板楯蛮(土家苗) O3021354*/P201 6.2 5.7 板楯蛮(土家苗) の来朝は早くとも河内王朝以後、基本的には継体朝と見られるため、吉野ヶ里が初めから 一気通貫でテンパイしていたわけではなく、ペンちゃん状態であったが、恐らく継体朝で満貫テ ンパイし、奈良朝以降に沖縄に移動するのではなかろうか。
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