トップページ > 考古学 > 2014年12月13日 > ykCvwcX1

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白馬青牛 ◆MSPArYuLmJK6
日本の古代史 Part19 [転載禁止]©2ch.net

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106 :白馬青牛 ◆MSPArYuLmJK6 []:2014/12/13(土) 00:27:32.62 ID:ykCvwcX1
>>94
山東は、來夷に限らず、九夷ら夷族のままの連中が多かったし、牧畜民系も多かった土地柄云う
考察が全く無う、政治論に還元しても、つまらんわ。
領域じゃの面を世界の概念云うとるが、山東の都市国家以外の牧畜地域無視で、
斉は周と親戚の西戎の羌族系統の姜姓じゃに。
>>98
わしゃ、毎度嘘吐きのネット右翼が如き嘘はこかんが、具体的にわしのどこが嘘かも指摘せず、
他者印象工作じゃ幼稚過ぎよう。
>>99
現実にツングース系が日本の支配層で日本民族の主流じゃけぇのう。戦前の学説以来決まりきった
ことじゃし。第二次大戦の話はネット右翼にゃ都合が悪りいんか?(笑)。
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108 :白馬青牛 ◆MSPArYuLmJK6 []:2014/12/13(土) 00:58:23.84 ID:ykCvwcX1
>>94-107
 ほいから、春秋戦国の山東の状況はこっちにも出とるよ。
http://www2.rku.ac.jp/hara/tokushujune17.htm
第8講 春秋戦国時代の開発V
あんたが主張したいんは、
「古典の筆者たちが、自らの属する集団を意識して用いた言葉が「夏」「華」「夏華」などである
(「中華」という言葉の成立は少し遅れるらしい)。後世、東夷・南蛮・西戎・北狄などと、
「中華」を中央に、その四囲に夷狄を配する、という概念が発生したが、前回も述べたように、
穀物生産を主たる生産活動にはしていない人間集団、すなわち「夷狄」と呼ばれた人々は、
中原でも生活していたのであり、「中国を西北から遊牧民が侵略した」といった表現は、少なく
とも古代中国に関する限り、不適当だといえよう。が、「夷狄」の排除ないし「同化」策は、
華北全域で、一様に進行したわけではない。各々の自然条件・社会条件によって、幾つかのパターンがあったと考えられるようだ。
ます、海に突き出た、山東半島では、どうだっただろうか。」
と、この筆者の山東を中原地域に還元する自体、違うとるよ。
「山東半島には、殷周交替に際して、太公望呂尚という人物が封建されたと伝えられている。釣りを
しているとき、周の文王と出会った、という伝説が、現在でも「釣りマニア」をちょっとシャレて
「太公望」と呼ぶ由来なのだが、その子孫である斉の支配者集団は「姜姓」であったともされて
いて、白川静氏をはじめとして、「姜姓」の人々と、現在、四川省や青海省に生活する羌族との
関係を想定される論者は多い。「姜」「羌」とも羊を含む文字であるから、他集団から見て、
羊飼育が特徴的な人間集団だった可能性は高いといえる。
齊に纏わる伝承のうち、家畜に関連する逸話としては、『尚書』禹貢という文献(戦国から漢代まで
に成立したらしい)に、青州(山東半島東部で、戦国時代の齊の領域の東半分に相当する場所))
では「莱夷が牧を作す」と記されている。そして、『春秋左氏伝』・襄公2(紀元前571)年の
条に、時の齊の君主靈公が莱という地域に侵攻した際、莱人が靈公の側近であったらしい宦官
夙沙衛に「精選した牛馬各百頭を贈与すると、齊軍は引き揚げた」との記載がある。この逸話の
全てを「史実」と見なしてよいかは問題なのだが、少なくとも「牛馬」が、「莱人」からの
「賄賂」に相応しいとの認識と、「牛馬百頭」は、一国の外交方針を左右させうる莫大な価値の
あるもの,との常識とが、この記載から想定できる。」
山東への支配移民としての西戎系の斉も、現地の來夷も牧畜民族じゃし、来夷のような夷族の協力
無しじゃ政治も出来ん。
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109 :白馬青牛 ◆MSPArYuLmJK6 []:2014/12/13(土) 01:00:44.03 ID:ykCvwcX1
>>94-107
>>108の続き。
その後山東が中原化される過程で、
「おそらく成立期は戦国末期だろうと思われるこの文書において、居住区民共同の狩猟が、生活
必要事業として認証されているのも、森林の残存を物語る史料として興味深いが、ここで、
注目したいのは、挙がっている家畜の中に、羊がいないことである。『孟子』成立の時代前後には、
臨湽郊外の牛山で羊が放牧されていたはずである。それなのに、この文献では、羊への
言及が無い。
従って、羊は、斉において、余りに一般的家畜であり、しかも為政者にとって、余り好ましくない
存在だったのではないか、という推定が成り立つ。なぜか。羊は、草を食い尽くす。根っこまで
掘り返して食べてしまうので、頭数が増えると、草原が再生されなくなるのである。今日の
中国西北部や、モンゴル共和国で重大な被害を生んでいる、いわゆる「放牧圧」の問題である。
少々ウガッタ見方をするならば、春秋の斉国成立以前から山東半島で生活していた「「莱夷」の
ような人々は、同じ牧畜でも牛馬が中心で、春秋までの斉の国君・姜姓の一族は羊飼育を慣わしと
する集団であったから、その一族を追い落とした田斉にとって、元の為政者につながりかねない
羊飼育を継続しようとする者には、庇護を加えない、という事情があったのか、とも想像される。
ただし、これは、あくまで、想像の域をでない。
 ともかく、「銀雀山漢墓竹簡」に含まれる文献では、羊飼育が奨励されていないことは、ほぼ
確実で、結果的にそのような姿勢の存在が、山東の環境を湿潤に保つ機能を果たしたともいえるので
ある。
 以上、前回配布した表に纏めたように、斉の開発方針は、地域毎に特性を考慮した、多様性重視
の環境適合型であったと考えられる。」
と、農耕民側に立った見解じゃあるけど、山東の牧畜系は時代を経るにしたがい邪魔な存在に
なってきたゆえ、満州や朝鮮へ移住した集団が多かったんじゃろう。
東夷は元来牧畜民系であってトンデモ岡田英弘氏の妄想タイ系南方稲作民じゃ無いぁし、
漢族として歴史を経た戦前の山東ですら、有名な山東馬賊の地域で、北方牧畜民文化の
影響は、消えんかったけぇのう。山東の古人骨が、北方渡来系なんも、元来北方民族の
地域じゃったゆえじゃ。


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