- 日本の古代史 Part14
299 :出土地不明[sage]:2014/03/07(金) 01:58:36.93 ID:NRCufr5Q - >>296もう一回読め
…黄巾の乱から五十年を経た230年代、魏の高官三人が明帝に提出した意見書から当時の華北の人口が推計できる。 杜恕は「今、大魏は十州を奄有しているが、喪乱の弊をうけて、その戸口を計れば往昔の一州の民にもしかない」といっている。 十州というのは、後漢の十三州から呉の支配する揚州・交州、蜀の支配する益州を除いた数である。 後漢の総人口は140年の統計では4915万220人であった。これから三州の人口を引くと十州では3635万5210人となる。 魏の人口はその10分の1にも満たなかったというから、360万人より少なかったことになる。 また陳群は「今は喪乱の後で人民はいたって少なく、漢の文帝・景帝の時期に比べれば一大郡に過ぎない」と言い、 蒋済も「今は十二州あるけれども民の数に至っては漢の一大郡に過ぎない」と言っている。 十二州とは、魏が擁州から涼州・秦州を別けたからである。 前漢の最大の郡は紀元2年の統計では、汝南郡の259万6148人、それに次ぐのは頴川郡の221万973人であり、 後漢では最大が南陽郡の243万9618人、次が汝南郡210万788人となっている。 「一大郡に過ぎない」とは、つまり250万程度という意味である。 呉の人口はさらに少なく、約150万というところだろう。 皇甫ヒツの言うところでは、244年に将軍朱照日が、呉の領するところの兵戸は13万2000だと本国(魏)に報告している。 一戸から一人が兵士になるのだから、これはそのまま軍隊の定員と考えていい。 後に呉が晋に併合された時の数字では呉の人口の9%が兵士となっている。これを適用すれば呉の人口は約150万となるのである。 蜀は、263年に魏に併合されたとき「男女口94万、帯甲の兵士10万2000、吏4万」合計108万2000人であった。 このようなわけで、三国の合計は約500万ということになる。 先の皇甫ヒツは「三帝が鼎足して二郡を超えない」とも言っているからまさにその通りということになる。 中国の人口は漢代の5000万から500万に激減したのである。これは事実上の中国人種の絶滅である・・・
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