- 日本の古代史 Part11
429 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU []:2013/10/22(火) 01:12:57.29 ID:w7SD/SNX - >>420
北方騎馬民族系直系の4世紀以降の積石木槨墓人が支配層の新羅も、 北方木槨墓人支配の加耶・倭も出自を明かさんかったら、 中国史書から現地民扱いされるだけじゃしね日本列島も同様。逆に 唐王室の鮮卑系が漢人に家系偽装した例の方が日本でも 源平藤で顕著でも文書にあるんなら事実と妄想する方が可笑しかろうに。 そがぁな白々しい嘘に付き合うあんたぁ、余程マインド・コントロール され易い人間ですと、告白しょるようなもんじゃないか(笑)。 じゃけぇ、ネット右翼らは、お馬鹿さんが多いんか? >>421 理屈じゃ無うて歴史の史実じゃに。 http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/column/page008.html ▼渤海使、軍事使節から交易使節へ▼ 8世紀半ばまでの渤海使は、唐や新羅との対立に手当てした36人ほどの軍事使節であった が、762年唐から郡王でなく国王の称号が与えられることで唐との関係が好転すると、9世紀に かけて交易使節としての性格が強くなる。それに応じて、使節は8世紀後半180-300人規模とな り、9世紀以降は105人規模による定期的な「商旅」となる。 ▼新羅商人の山東半島への進出▼ 新羅の地方反乱は、海賊の拠点 として注目されてきた朝鮮半島の南西海岸でも起きており、「この地方の海賊の実態が、沿岸 部や島嶼地方に居住する海上生活者(海民)であったとすれば……海民の動向にも大きな影 響を及ぼしたのではないかと考えられる」(李前同、p.178-9)。 唐では、755年の安史の乱を契機にして内地にも置かれるようになった節度使が、地方勢力 として盤踞するようになる。そのなかでも、平盧沺青節度使の李氏一族は819年まで3代・半世 紀にわたって、円仁が新羅商人に依存して旅行した、山東半島を支配していたという。その支 配は東シナ海沿岸部の海上活動を促進させた。 李成市氏は、そうした情勢のなかで新羅商人が活躍の場が与えられたと見ているが、それ 以前にその場がすでに与えられていたのではないか。それは、732年渤海が山東半島登州を 攻め、唐と新羅使の海路を制圧する。唐は水軍を貧弱であったため、それを新羅に依存せざ るをえなかった。翌年には、唐は新羅をして、渤海の南境を攻撃させる。こうした軍事協力のな かで、新羅商人が山東半島に進出し、居留するようになったと見られる。 >>422 博士も自称宣伝で成れるし(笑)、どこまで洗脳され易いお馬鹿さんなんじゃ ろうか(笑)。 ツングース系氏族組織の満州語のハラ(hala)方言のハラ(xala)、 漢語で哈拉(ハラ)は、東漢氏や秦氏の腹(ハラ)で兄弟間に直系、傍流の差が 無い遊牧民式平等分割制でもある。漢人なら長子が相続すると庶子は配分が 少なうなるけぇのう。 乳製品が高級食材?(笑)。北方胡族なら日常食じゃに。呉人は日常身近な 食ゆえ、日本へ渡来しても献上になった可能性の方が強いよ。 >>424 王朝系列を追う朝貢国なんか無ぁよ(笑)。現実の勢力との対応が外交 じゃに、妄想ロマンが好きじゃのう(笑)。
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