- 日本の古代史 Part11
418 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU []:2013/10/21(月) 01:30:19.60 ID:iQGIBXc+ - >>403
王朝や権力者の出自は、当人が正直に語るじゃのトンデモ概念を設定たぁ、 幼稚過ぎよう(笑)。唐王室から、日本の源平藤姓のほとんどが ニセ者じゃ云う歴史認識すら持ち合わせておらんたぁ。 ほいから、畿内王朝が直接南朝に朝貢したんなら、外交ゆえ、記紀の記録 にも残るはずじゃが、痕跡が無ぁ処、畿内王朝と全く関わりが無ぁ云うこと。 >>407 漢字なら高句麗や百済の知識階級も使えにゃ、外交が出来んじゃない(笑)。 漢字が使えるものは、皆漢人云うトンデモ概念に還元してもつまらんよ。 しかも漢氏はツングース系ハラ氏族制で漢人要素は乏しいよ。 ほいから、乳製品でも、南北朝時代に、北部の山東の漢人ですら好まんのに、 南朝に山東が含まれた時代があっても、乳製品受容なんかほとんど無ぁけぇ、 日本へ渡来した呉(クレ、句麗)人が、北方渡来系じゃとバレるんよ。 53 :白馬青牛 :06/04/09 02:28:52 ID:Ct1ZfzBZ 北魏の高祖の時代、名士として知られた山東の王粛が北魏に降伏した。 王粛は、羊肉を嫌い魚と茶を用いたが、数年後、北魏の宮廷の宴で、 盛んに羊肉を食い、大いに酪を飲んだ。これを見た高祖は「羊と魚、 酪と茶はどちらがうまいか」と聞いた。王粛は「羊肉は大国、魚は小国の ようなもので、茶は酪の奴(しもべ)みたいなものです」と言ったので、 高祖は大笑いした。 この故事から茶は別名を「酪奴」というようになった。と『洛陽伽藍記』 の話を岩村忍氏が書いておられますが、北魏の拓跋も大興安嶺時代には、 狩猟・漁撈・農耕民で、魚や野生動物を食し、羊を食う機会は少なかった でしょう。おそらく遊牧地帯を支配し、遊牧文明の洗礼を受け羊肉を 最上とするようになったのでしょう。
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