- 日本の古代史
193 :出土地不明[sage]:2011/10/23(日) 20:13:40.06 ID:o/HzoTsG - 曽畑(そばた)式 縄文前期後半・約5500年前
http://homepage3.nifty.com/himegappa/tsu/doki/sobata.html また、韓国全土に分布する櫛目文土器と文様が似ていて、 朝鮮半島との関係を指摘する説もあるという。 九州北部なら朝鮮半島は目と鼻の先だし、 関係があったら面白いと河童も思う。 丸木舟で往来していたのかな〜
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194 :出土地不明[sage]:2011/10/23(日) 20:16:37.90 ID:o/HzoTsG - 曽畑式・神居式・トコロ6類
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka5/b291.htm 前期後半になると九州では曽畑(そばた)式が成立する。 深鉢、壺様などの器形をもつが、装飾については直線状の幾何学文様を描く。 日本列島のなかでは唯一、縄文地をもたず、半島南部から沖縄まで分布する。 成立のプロセスについては、はっきりしたことがわからない
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196 :出土地不明[sage]:2011/10/23(日) 21:21:24.06 ID:o/HzoTsG - 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の 作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の 大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら さらにさかのぼることになる。 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は 吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。 祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。 884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の 戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は 口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に 閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の 将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。 http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html 上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い =「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg
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- 天皇はいったいどこから来たのか?part3
593 :出土地不明[sage]:2011/10/23(日) 21:21:55.13 ID:o/HzoTsG - 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の 作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の 大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物なら さらにさかのぼることになる。 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は 吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。 祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。 884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の 戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は 口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に 閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の 将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。 http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html 上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い =「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg
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197 :出土地不明[sage]:2011/10/23(日) 21:30:54.78 ID:o/HzoTsG - 祢軍(でいぐん)という百済の将軍について
日本書紀・天智天皇4年9月条に”右戎衛郎将上柱国百済・祢軍”として、 日本の歴史書にも記載されている 百済の官人。海外国記に「百済左平祢軍」とある。 百済滅亡後は、唐に仕えたらしく、 三国史記・新羅紀に、670年7月、熊津郡督府の司馬として新羅に赴き 捕らわれたこと、 672年9月に釈放されている。
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198 :出土地不明[sage]:2011/10/23(日) 21:38:07.48 ID:o/HzoTsG - 197は、ガセピアでした。ごめん。
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199 :出土地不明[sage]:2011/10/23(日) 21:51:45.99 ID:o/HzoTsG - 郭務そうという中国人のことは、日本書紀に何度も登場しますが、
あまり有名ではありません。そのすべてを先ず書き記してみます。 前略 665年09月23日 ------ 唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣してきた。 この一文には、施注が付いており 「"等"とは右戎衛郎将上柱国百済"祢軍"朝散大夫柱国郭務?をいう。 後略 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page788.html
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201 :193[sage]:2011/10/23(日) 22:53:22.37 ID:o/HzoTsG - >>200 Thanks
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