- 日本の古代史
134 :LUNAMASK[]:2011/10/21(金) 10:27:07.75 ID:8tXCL1mF - ブリャートのYDNA構成
Buryats (Karafet et al. 2002 via Tambets et al. 2004 and Hammer et al. 2005): 45/81 = 55.6% C3-M217(xC3c-M86) 4/81 = 4.9% C3c-M86 1/81 = 1.2% G-M201 1/81 = 1.2% J-12f2 23/81 = 28.4% N1c1 2/81 = 2.5% N1b 2/81 = 2.5% O3/-LINE1 ←これだけが南方系 ブリャート豁里族は白鳥伝説を持つ 1/81 = 1.2% R1b (or possibly R1-M173(xR1a-SRY1532)) 1/81 = 1.2% R1a 1/81 = 1.2% R-M207(xR1a, R1b) (or possibly R-M207(xR1-M173))
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135 :LUNAMASK[]:2011/10/21(金) 10:27:55.02 ID:8tXCL1mF - 「北方台地の東の高夷氏とは東北夷の高句麗である。
高夷氏は山東省に登場する最古の部族で、大地に鵠(おおはくちょう)のトーテムを 祀り、東夷族の中原進入に従って、商時代には河南省北部に進入していった。やがて 中原から東北地方に移住した高夷氏は、後に高句麗と名乗った。」 「西周初年、周の成王は洛邑(洛陽)を創建した後、諸侯を招いて大会を催した。 この会議に参加した東北の高夷は高句麗族の源流であると認める人もいる。学者の なかには高句麗の王族は北扶余の出自であることを根拠にして夫余が高句麗の族源 だという。その他にも学者には幽州の燕の地から商の先祖が出たことを根拠に大部 分の商人が主に中原を入った後、余部は東北に居留し、東北少数民族の祖先とな り、高句麗人の源流となったという。無論高句麗の出自は穢貊、高夷、扶余、商人、 どれも古代の東北民族であり、高句麗を東北の古代民族だとすることに何の問題も 無い。」 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kozoku/kozoku1-koui.htm 結論 豪州Peter Jiaは遼東山岳部青銅器馬城子文化が北上、西團山文化になったと するが、この文化が更に、外バイカルに入り豁里族を含む“林木中百姓”(槐因亦兒堅,Hoi-yinirgen)となり、これが逆に南下して夫与となり、東には穢貊を支配し春日氏と なり日本に至り、南では高句麗として勃興した。これは本来河南省方面の出自でO3/-LINE1であったと考えられる。
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142 :LUNAMASK[]:2011/10/21(金) 14:11:17.21 ID:8tXCL1mF - 弥生渡来人
(1) 前漢(BC206-BC8) (a)近畿東海 O3-M122 6.60% 照葉樹林 後の前方後円墳 O2a-M95* 1.90% テン王国 銅鐸 8.50% (b)九州中国 O2b1-47z 22.00% Koreo-Japonic Yemaek 高地性集落 O2b-SRY 7.70% Altaic Yemaek 29.70% (2)後漢(AD25-220) O3-LINE1 3.10% 東明・天皇系 方墳・前方後方墳 C3-M217* 1.90% 拓跋・出雲 四隅突出型墳丘墓 C3c-M86 1.20% 烏丸 N1c1-M178 0.40% 丁霊 6.60% (3)応神朝(AD371-394) O3a3c-M134 10.40% 夏華/戎 NO-M214* 2.30% Qiangs or Di1 R-M207 0.40% Yuezhi or Di2 日向地下式横穴墳 I-P19 0.40% Sogdians 13.50%% (4)継体朝(AD 507-531) N1-LLY22g* 1.20% Huns or Turks 肥後石室墳 Q-P36 0.40% Khyrgyz 肥後石室墳 1.60% 59.90% 縄文 Jomon D2 34.70% (Northern Jomon descendants) C1-M8 5.40% (Southern aboriginal Jomon) 40.1%
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146 :LUNAMASK[]:2011/10/21(金) 16:36:44.98 ID:8tXCL1mF - >>143-144
天皇家は奈良時代になって初めて歴史を手がける実力が付いたものの、古墳-飛鳥 時代の資料は乱れており非常に苦労したと言うことでしょう。中臣-藤原系はバイカル 湖でも東方の森林地帯の経営を任され、中央では牧畜系の拓跋が、日本では稲作系 の尾張系がはばをきかせていたものだから、東国での下積みが長かったんでしょう。 記紀はそういう事情を勘案しながら読むべきなんでしょうね。
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