- 弥生人が百越人であることは動かない2
245 :出土地不明[]:2011/02/18(金) 16:11:10 ID:y11ZXhGQ - 名前:出土地不明 :2011/02/18(金) 00:13:31 ID:vCAi7EBi
まだ先は長そうなので、あらためて燃料投下。 >新羅の支配層は北方積石木槨墓人で、伽耶の支配層は北方木槨墓人じゃし、 北方系支配層と先住民ても言語文化は違うとろうに。 この北方先住民族がツングース。 北方系支配層は土着のツングースとは異種族で、水生系夷族文化の強い王家。 要するに「北方木槨墓人」とは「南下したツングース文化」じゃなく、「北上した夷族文化」ということ。 そしてその王家以下のように、夷族(東夷)文化を明らかに持っている。 1)四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)信仰がある。(玄武すなわち変温動物の蛇や亀が北にある) 2)織媛(七夕)や北斗七星、北辰といった夷族系の星信仰がある 3)江南発祥とされる「支石墓」があり、半島付近の支石墓分布も北方に行くほど少ない。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shisekibo_hantou.png 4)高床式建築がある。 5)北方系の短弓と夷族系の長弓が混在している。
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246 :出土地不明[]:2011/02/18(金) 16:14:03 ID:y11ZXhGQ - 名前:出土地不明 :2011/02/18(金) 08:35:52 ID:vCAi7EBi
>どんなルートで北上したのか説明できる? もちろんひとりひとりがたどった道は千差万別だろうけど、 この支石墓の分布からどこに上陸してベースとし、どのように北方に拡散したかの参考になると思う。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shisekibo_hantou.png 高句麗始祖伝説の東明王は河伯の娘の子とされるが、河伯は黄河流域の神。 また扶余に関しては「風俗通義-廣韻〜餘(後漢代)」によると 郡有之風俗通云?(呉)公子夫(概)?奔楚其子在國以夫餘爲氏今百濟王夫餘氏也「「輿」」車輿又多也又權輿始也續漢書輿服志曰上古聖人 つまり呉の「夫概(呉王の弟)」が反乱をおこしたが敗れて楚に逃げ、呉に残された夫概の子孫が呉を離れて移り住んだとされている。 木槨墓は殷周代の中国東部地域の代表的な墓制であって、およそ(朝鮮半島)北方起源とはいえず、 江南あるいは山東半島から遼東半島あるいは半島西南岸に移動したと考えるのが自然。
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