- 天皇はいったいどこから来たのか?part2
137 :出土地不明[]:2011/01/27(木) 21:11:54 ID:MapnNdrW - >殷の戦車文化すら西方オリジンじゃ。
確かに殷は陸上騎馬種族。 強弓を放ち、三頭立ての馬にひかせた戦車で銅戈(か)をふるい敵を蹂躙するので剣や矛はほとんど実用にならない。 一方、呉などの水生種族にとっては戦車も戈もあまり実用的ではない。 火矢で敵船を燃やし、白兵戦を敢行し狭い船内で剣や矛をふるって敵の首を伐る。 日本には戦車や戈文化は極めて希薄で、代わりに船や剣・矛文化が濃厚。(神武天皇も神功皇后も明らかに船移動) ちなみに呉などでは火矢を避ける為、戦艦には牛皮や薄い銅板、鉄板を甲板全面に貼りめぐらした装甲船にする。 銅板等を張り巡らした船は長い間に「ほとんど岩に覆われたような外観の船」になる。 これが「天の磐船」ではないかと言われている。
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138 :出土地不明[]:2011/01/27(木) 21:18:38 ID:MapnNdrW - >採陶も西方の西アジア、中央アジア起源の可能性が強いし
中東やエジプトの文化文明の起点といえるのは、「BC3500頃」からメソポタミア南部の河沿いにおきたメソポタミア文明。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB メソポタミア文明はこの地域にやってきたシュメル(セム語で「黒い頭の人」という意味)人によって始まったもので東方からやってきたともいう。 一方、仰韶文化は紀元前五千年から紀元前三千年あたり。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B0%E9%9F%B6%E6%96%87%E5%8C%96 仰韶文化は「母系文化」で繊細な採陶で知られていた。 ところが紀元前三千年あたりになると、突然「男系文化」になっており採陶もまがい物のような拙いものになった。 そして旧来の仰韶文化を継承していると見られる文化はそのかなり西部で見つかっており、さらに黄河下流域でも見つかっている。 これは、五千年程前に「北方の騎馬狩猟種族」がこの地域に侵入したとき、恐らく仰韶文化を奪い、コピー文化を作ったのだと考えられる。 その結果、正統な仰韶文化人は、侵入した陸上種族が容易にやってこれない西遠方あるいは黄河河口付近の山東半島北部に移ったと見られる。
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139 :出土地不明[]:2011/01/27(木) 21:54:35 ID:MapnNdrW - エジプトの最初のピラミッドの形態は階段状。
階段ピラミッド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89 それを設計した宰相イムホテプは元来のエジプト人ではなくメソポタミアの家系であり、(ネット上ではこれくらいしか見つかりませんでしたが)http://www13.plala.or.jp/rameses2/kakeizu.htm その原形はメソポタミアにある、数階層に組み上げて建てられた聖塔「ジッグラト」といわれている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88 ジッグラトは「高い峰」という意味で、近辺に高い山の無いメソポタミアで作られた人工的な高台に神殿を築いたもの。 ほとんどが平地のメソポタミアにあって、人工的に作ってまで高台が必要としたのは、シュメル人の祖族がもともと高山に神殿を築いていたからと考えられる。
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