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見ろ!名無しがゴミのようだ!
ゲド戦記
【ゴロー】コクリコ坂から Part9【ジブリ】

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ゲド戦記
741 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 08:51:13.21 ID:mNhrx9s+
ゲド戦記 主題歌 『テルーの唄』

作詞 : 宮崎吾朗


◆1番 喪男の歌

老境が迫った男がいる。
同じような年頃の者たちはみな仲睦まじいつがいになっている。
しかし男はいつも独りだ。
傍らから見てひどくあわれな存在だ。

男は仕事によって高い地位と収入を得た。
しかし仕事に忙殺され、
大切な者たちとまともに交流する事もできなかった。

その結果皆が男の許を離れていった。
それでもなお男は仕事に囚われ、休む事すら能わない…

この心境を何に喩えろと言うのか──
虚空を一羽で飛ばねばならぬ鷹のごときこの孤独を
この悲哀と怨嗟を誰に訴えれば良いというのか…
ゲド戦記
742 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 08:52:16.47 ID:mNhrx9s+
◆2番 喪女の歌

地味な顔立ちでコミュ症の女がいる。
同じような年頃の者たちはみな仲睦まじいつがいになっている。
しかし女はいつも独りだ。
傍らから見てひどくみじめな存在だ。

女は結婚適齢期を過ぎ容色がだいぶ衰えてきた。
もはや遅いにもかかわらずなおも必死に化粧したり
かわいい女を演じている。

しかしまったく男に相手にもされず
今夜も寂しい身体を持て余している…

この心境を何に喩えろと言うのか──
自分は素晴らしいヒロインで、
将来はきっと素敵な男と結ばれるだろうと信じ続けてきた
乙女心の虚しさを

常に驟雨のような劣等感と自己嫌悪にさらされねばならぬ
この切なさと苦吟を誰に訴えれば良いというのか…
ゲド戦記
743 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 08:53:10.69 ID:mNhrx9s+
◆3番 仮面夫婦の歌

人生の下り坂を歩みつづけている者たちがいる。
同じような年頃の者たちはみな幸福な家庭を築いている。
しかし彼らはいつも独りだ。
傍らから見てひどくうつろ存在だ。

世の大部分の者たちは互いに親密に繋がり合い
人生の表通りを笑顔で歩いている。

対して彼らはすぐ傍にいて同じ生活を送っているにもかかわらず
関係が冷え切り、何も言葉を交わす事がない。
何の目的も希望もなく
人生の寂しい裏道を豚のように虚しく生きているのみである…

この心境を何に喩えろと言うのか──
険しく果てしない人生の長途を
独りで歩まざるを得ぬわが身の愚かさと卑小さを
この懊悩と寂寞を誰に訴えれば良いというのか…
ゲド戦記
744 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 09:44:11.45 ID:mNhrx9s+
ぶっちゃけ吾朗はマジで天才だと思う

映画はクソつまらなかった。
ひたすら見ているのが苦痛でしかなかった。
一般的な視聴者はその皮相しか見ずに
口をきわめて批判する。

自分も最初に見た時は
(というかつまらなすぎて今に至るまで一度も見返していないんだが)
才能がない、くだらない、稚拙なつくりだと思い一顧だにしなかった。

しかし今にして思えば
吾朗は世間の批判に晒されるのを覚悟の上で
敢えてわざとつまらく作っていたんだろうと思う。
それする事で現代社会の空疎さ、
そこに生きさざるを得ない事の虚しさと苦痛を
作品全体を通じて余すことなく表現していたわけだ。
ゲド戦記
745 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 09:44:29.50 ID:mNhrx9s+
『テルーの唄』は、個々の尊重、価値観の多様化、
趣味嗜好の多角化、自由競争の推奨、
自由恋愛などといった美名のもとに
毎年のごとく人々の経済格差が開いていき
価値観の先鋭化、ネット通信の発達に反比例して
個人がどんどん孤立化していく
現代社会の闇を的確に掬い取った名曲だ。

そしてそうした現代社会の問題を、
ファンタジー世界にあって唄っても違和感が出ないよう
うまく翻案して作り上げられている。
作詞を担当した吾朗は天才だ。

その曲を唐突に作中でテルーが唄い始める。
1番だけで済ましておけばいいのに長々と2番まで唄う。

最初に見た時はヒマでヒマで仕方がなかった。
バカじゃねーのかと思った。

しかし歌詞の内容を見れば、なぜ2番まで唄ったのか明白だ。
1番は男(もしくは父親、高き者)の唄、
2番は女(もしくは母親、低き者)の唄で
対になっており、1番のみを唄ったのでは片手落ちであり
男女不平等になるからだ。

この唄は現代社会に生きる人々の孤独を唄ったもので
あの場面で作者は視聴者に対して
問題提起をしてみせたのだ。
ゲド戦記
746 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 09:57:23.20 ID:mNhrx9s+
この映画では都市部に住まう人々は
皆人生の目的も希望もなくゾンビのように無気力に暮らしており
悪がはびこり、人々は奴隷車に乗せられて売り払われていく。

にも関わらずそれに反抗する事もせず、従順にうな垂れて
手足に枷をかけられたまま運ばれていく。
人々に残されたわずかな愉しみは麻薬くらいのものだが
そのようなものをいくら行ったところで人生が好転するわけでも
何かを得られるわけでもなく
ますます泥沼にはまって転落し、
スラム町の路地裏で、誰にも見取られる事なくみじめ最期死を迎える…

そのような世界観だ。

原作のそれとはまた異なる生々しい荒廃感を持ったこの街は
バブルが弾けて経済が停滞し
以降は迷走と凋落の一途を辿る、閉塞感に囚われた
現代日本を表している。

2003年の労働者派遣法の大幅改正によって
派遣社員というみじめな現代の"奴隷"にされ
おそろしく低い賃金で死ぬまで長時間こき使われ続ける若者たち。

彼らは欧米のように会社や社会に反発する事も
徒党を組んで暴れる事もなく
ただ唯々諾々と上に従い
充実したまともな人生を築くだけの時間も余裕もなく
人生の貴重な時間と精神をすり減らして、
ただ機械のように毎日くだらない作業に従事する。

ないし心を壊して鬱病となり、
通院して抗欝剤と称する合法麻薬の常習者にされるか
社会に出る事ほ拒絶し、独り暗い部屋の中に引きこもり、
親に甘えて過ごすようになる。
ゲド戦記
747 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 10:06:56.18 ID:mNhrx9s+
彼らのせめてもの楽しみと言えば
スマホだのゲームだの漫画だのドラマだの映画だの音楽だの
アイドルだのオナニーだのSEXだの…
そのような何の意味も価値も生産性もない、くだらなさを極めた娯楽のみだ。
いくら金と時間をつぎこんだところで
何ひとつ自分が変わるわけでも
現実の生活に役立つものを得られるわけでも何でもない
ただむなしく時間と労力と金銭を浪費するだけの
妄想の世界への逃避行動だ。

自身の歪んだ精神性やみじめな生活を変えようともせず
そうした下らない娯楽に麻薬的に没入する
愚かな現代人のありさまを
吾朗はあの都市を通じてカリカチュアライズして描写したのだ。

親殺しをしたアレン、いつもは欝状態のくせに
剣を抜いた途端別人のような邪悪な表情に豹変して
喜々として人を斬りにかかるアレンは
親に反発して暴力や殺人を働き、高齢者を敬わず、
弱い者に対してはいじめを繰り返し、ゲームの中で殺戮を愉しむ
現代の若者の心の闇を表している。
ゲド戦記
748 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 10:09:48.78 ID:mNhrx9s+
そして吾朗は例のテルーの唄を流す事によって
晩婚化、非婚化が進み、加速度的に少子高齢化に向かう
現代社会の孤独を提起し
「いのちを大切にしない者なんて大っ嫌いだ!」
と、孤独ではあるが自分の意志と生活を持つ
一人暮らしのブス女に言わせた。

これは何を意味しているのか?
皮相のみを追っている視聴者は
主人公のアレンが、危険な行動をしている事を
咎めているもののように思い込んでしまうだろう。

しかし実際のところテルーとアレンに会ったばかりであり
殆ど彼の事を何も知らない。
テルーが目撃したアレンの危険な行為は
せいぜい人攫いの前で剣を振り回して逃亡させた事くらいのものだ。

ではテルーはなぜアレンという
現代の若者の闇を凝集させたようなシンボリックな存在に対し
何をもって「いのちを大切にしない者」と呼んで批判したのか?

ぶっちゃけここで吾朗はテルーの口を通じて現代人を批判したのだ。

「いのちを大切にしない者」とは
「自分の人生を真摯に見据える事なく、無気力かつ刹那的に
 周囲に流されるがままに生きている」
 大部分の現代人を指している。
 その奴隷そのものの愚かな生き方を痛烈に批判してみせたのだ。

これらの視点に乗っ取って考えれば、
おのずとその後の展開や結末が何を意味し、
結局吾朗はこの映画を通じて何を訴えたかったかのかが
わかるようになるだろう。
【ゴロー】コクリコ坂から Part9【ジブリ】
868 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 15:52:04.12 ID:mNhrx9s+
主題歌 『さよならの夏』はジブリ映画屈指の名曲だと思う。
もっとも、この曲は元々ジブリのものではなく
1976年に夜9時から放送されていたテレビドラマ
『さよならの夏』(原作小説のタイトルは『廃園』)
の主題歌をそのまま手嶌葵に唄わせたもので
もともとジブリとまったく関係ない。

舞台はドラマの山の手にある主人公の邸宅と
その周囲の光景を唄ったものだが
映画コクリコ坂でも意図的に舞台が
似たようなロケーションに設定されているため
違和感なく聴こえるようになっている。

この曲のポイントは必ず毎回「夕刻」が舞台で
歌い手の女性が主観からそこに存在しない「夏色」の何かを探し
その中でやはり存在しない「あなた」の影を想う事。

古代中国では人生を四季になぞらえ
幼年期や少年期を青春、
青年期を朱夏、中年から壮年期を白秋、
老年期を玄冬と呼んで区分した。

この曲においても穿って考えると
夕刻というのは人生の夕暮れ、
すなわち中年期が闌けりを過ぎた40代後半から
人生の闇夜にあたる老境へとさしかかるまでの過渡期をさし、
夏色の〜というのは若い男女が結婚をして共働生活を送る
青年期の思い出を指すものと思われる。

要するに初老の女性が街を散歩しながら
人生の最も美しかった若かりし日々を回憶する歌だ。
【ゴロー】コクリコ坂から Part9【ジブリ】
869 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2019/05/19(日) 15:52:27.22 ID:mNhrx9s+
映画『コクリコ坂』の舞台は原作漫画と大きく異なり、
『スキヤキソング』が流行った頃、
即ち東京オリンピックを間近に控えた、
1962年頃の、日本の光景や人々の心象が
有史以降最も美しかったノスタルジックな黄金時代だ。

バブル崩壊以降、経済も人心も凋落の一途を辿っている現代と異なり
一度はどん底にまで落ち込んだ経済が
朝鮮戦争の特需以降毎年のように上向きであり
生活が年々改善され、庶民の暮らしは決して楽ではなかったが
人々の心が夢と希望に満ちていた日の出の時代だ。

現代日本に公開する映画でありながら
そのような時代を舞台に選んだのは、
製作者の趣味もある事だろうが、
観客の郷愁を誘うためにほかならない。
そうした時代を懐かしむ層とは、即ち幼年期から中年期頃に
その時代を経験した、落ち着いた大人の客層にほかならない。

よって『さよならの夏』は現在進行形の恋愛を追っている
青春の歌であるものの
同時にそれは老人が美しかった過去を思い出す
記憶すら定かではなくなった、過ぎ去りし時代の賛歌であるとも考えられる。


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