- もののけ姫 5
652 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2011/07/12(火) 00:13:07.72 ID:Iqcqk5Cg - >>650
十分じゃないよ。なんでサンが人間達を恨んで 山犬として森側に固執してるのかぜんっぜん描写が無いから いきなりタタラ場襲ってきて人間臭いとか人間嫌いとか言ってるだけで。 サンが孤独な立場だっていう描写も足りない。 一回イノシシに罵られただけで終了。あとはモロが口で説明っていう とにかくサンについての描写が少ないのに、最終的なクライマックスを主人公と一緒に迎えても意味を感じない あれならエボシとクライマックスを迎えるのが本当は正しいよ さんざんタタラ場と神々の争いを描いて、アシタカがその狭間で戦ったんだから
|
- もののけ姫 5
653 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2011/07/12(火) 00:22:44.67 ID:Iqcqk5Cg - 自然と人間とは対立するしかないのだろうか。その狭間で悩む主人公
このシシ神の森・タタラ場(人間)・アシタカの3つの関係がテーマになってる 序盤はタタラ場と山犬との戦い、そこに割り入るアシタカってことで、3つの関係は成立してたんだよ このままクライマックスまで話を繋げていけばキチンとテーマを描き切れてたのに、 そこに山犬でも人間でもないサンっていう難しい存在をポッと出してきて それをまったくほとんど消化しないままタタラ場と神々との戦いに割り込ませて あげくの果てにアシタカとラストを飾る始末。最初の3つの関係はなんだったのか
|
- もののけ姫 5
655 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2011/07/12(火) 00:30:51.40 ID:Iqcqk5Cg - >>654
だからさ、そうだったらなんで山犬とサンの生活より エボシとタタラ場の生活の描写のほうを優先してるんだって話だよ 山犬とサンの生活が脅かされる描写なんてほとんど出てこなかったじゃん
|
- もののけ姫 5
656 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2011/07/12(火) 00:41:02.59 ID:Iqcqk5Cg - サンとアシタカで最終的に話を締めたいなら
物語のレンズをサンとアシタカに絞るべきだっただろって話 サンと山犬との関係、森での生活描写、森の中での孤独な立場 そういった描写をおざなりにしてタタラ場の話ばかり描いて、むしろあの病人の庵とか エボシのほうがキチンと人物としての背景が深く描かれてた だったら伏線としてはエボシとアシタカを中心にドラマを締めるのが筋だった サンはほとんどマスコットキャラクターとしての機能しか果たしてない
|
- もののけ姫 5
666 :見ろ!名無しがゴミのようだ![]:2011/07/12(火) 13:58:30.83 ID:Iqcqk5Cg - >>663
その自然の側に立つ“人間”であるサンの描写が足りないって話 サンは犬神と同じ立場じゃないよ。作中でも「あの子は人間だぞ」とか口論になったり モロもアシタカ(人間)と生きる道だってあるんだよ。と諭すシーンもあって 山犬になりきれない中途半端な所で揺らいでる描写があった 完全に山犬と同じ立場ならモロと同じように最後まで戦い抜いて終わりだし つまり自然(山犬)と人間(タタラ場)の対立、その狭間で揺らいでるアシタカとサンって構図が主体になってる だったらサンについての描写を序盤から深く描いて伏線にしとかないと、 クライマックスをアシタカと一緒に迎える意義が無くなってしまう しかし作中では序盤からずっとタタラ場のエボシの立場を深く描いてるから シシ神の森とタタラ場エボシの対立をアシタカがどう収めるのか?がラストの焦点になってくるはず つまりエボシとアシタカと山犬(森)の物語であって サンっていう特殊な第4の立場を消化しないままラストまで出してきた意図が不明 あのプロットならディダラボッチの消滅と、 罰を受けたエボシとアシタカのこれから、がラストのはず サンははっきりいって自然側のキャラクターが動物しかいないから ムリヤリ擬人化するために狼に育てられた少女の設定をねじこんできただけの話 つまりマスコットキャラクターということ
|
- もののけ姫 5
671 :見ろ!名無しがゴミのようだ![sage]:2011/07/12(火) 16:11:29.78 ID:Iqcqk5Cg - >>667
シシ神側だが人間であるという設定を使って、アシタカとシシ神を会合させる役割までは描写としてあった だかラストに繋げる意義がわからない。ラストは自然と人間との関係がどういう終着を迎えるのかっていう話であって エボシとのドラマだよ。複雑な生い立ちを経たサンという少女とこれからどうするかという話じゃない 複雑なシチュエーションに追い込まれた少女を救おうってストーリーならば なにも自然と人間の対立のシチュエーションを選ぶ必要がない それこそラピュタのシータだって特殊な生い立ちや状況に追い込まれた少女で、それをパズーが助ける話だ アシタカとサンの関係もこれと一緒だ。これを自然と人間との戦いにくっつける必然性がないわけ だから最後の「共に生きよう」ってセリフも少しおかしい ただ生い立ちが特殊なだけで、人間嫌いなだけの人間であるサンにそれを言ってどうする? 言わなきゃいけないのは「自然」に対してじゃないのか 結局、自然とどうしたいのか答えを出さないままほっといて サンという特殊な「人間」の少女に惚れて終わっただけじゃないか
|
- もののけ姫 5
674 :見ろ!名無しがゴミのようだ![]:2011/07/12(火) 16:57:28.32 ID:Iqcqk5Cg - じゃあ聞くが、この映画は最終的に、自然と人間とはどうあるべきか
どんなメッセージを残して終わったかを答えてほしい。 何のメッセージも残してないと思う。なのに自然と人間との対立という 壮大すぎるテーマを扱ってラブストーリーでごまかして丸投げしてる 「共に生きよう」はサンという一個の少女に対しての言葉にすぎない なぜなら、あれからタタラ場を復興すればどんな作り方をしようが 人口は増えて技術が進めば自然破壊は必然的に行われるんだから その中で共に生きようってことは、自然じゃなくてサンという人間と生きようってだけの話 つまり根本的に何も解決してないのに解決したかのように終わらせてる サンを自然代表だと“偽って”サンと共に生きさえすれば すなわち自然との関係も良好になるっていう嘘八百で映画を締め括ってるんだよ
|