- 新国家「南スーダン共和国」独立祝賀会場
180 :人類発祥の名無しさん[]:2016/11/26(土) 00:22:23.91 ID:1K7hPGiN - ●南北スーダンの対立と南スーダン共和国の独立(1956〜2011年)●
南スーダンは1956年1月1日に独立したスーダンの一部であったが、イスラム教・アラブ系・アラビア語を 中心とする北部とアニミズム・キリスト教・アフリカ系・英語を中心とする南部とで根強い対立があり、 第一次スーダン内戦(1955〜1972年)と第二次スーダン内戦(1983〜2005年)と合計40年近くにも及ぶ 内戦が戦われていた。 南部の人々はアメリカ合衆国など国際社会を味方に付けて、独立の是非を問う住民投票に持ち込む ことに成功し、2011年1月に国際監視下で住民投票を実施、98.83%もの圧倒的多数の独立賛成票を得た。 同年7月9日、先の選挙の結果を受けて南部が「南スーダン共和国」として独立。同日、日本は松本剛明 外務大臣による談話を通じて南スーダンの独立を承認、祝賀した。また、同日にジュバで開催された 独立式典には、菊田真紀子外務大臣政務官が出席している。 ●独立から南北スーダン国境紛争の終結まで(2011〜2013年)● 南スーダン独立の前日である2011年7月8日、国連安保理決議1996が採択され、南スーダンの平和維持 活動を担う国際連合南スーダン派遣団(国連南スーダン共和国ミッション、UNMISS)が現地で活動を開始。 同年11月に日本はUNMISSに司令部要員を派遣し、翌2012年1月からは自衛隊施設部隊も派遣されている (自衛隊南スーダン派遣)。 同年4月、南北スーダン国境界部の油田地帯を巡って武力紛争が勃発したが、国連安保理は南北スーダン いずれにも肩入れせず両国を非難、5月2日には両国に対して即時停戦を要求した。翌2013年1月、南北 スーダン両首脳がエチオピアのアディスアベバで会談し、産油地帯の扱いに関する暫定的な取り決めで合意。 その後も何度が偶発的な衝突が起こっているものの、南北スーダンの武力紛争は一応の終息を見た。 2013年5月、国を空けて外遊できる貴重なチャンスを捉えて、サルバ・キール・マヤルディ初代大統領が 初めて訪日。5月31日、キール大統領は安倍晋三内閣総理大臣との首脳会談を行い、翌6月1日から 第5回アフリカ開発会議(TICAD V)にも参加した。尚、日本の元首級である内閣総理大臣、天皇ともに、 これまで南スーダンを訪問した実績はない。 同年7月1日、首都のジュバに駐南スーダン日本国大使館が開設。赤松武が参事官に就任し、同年 10月11日に特命全権大使に昇格した。尚、南スーダンから日本への外交使節の派遣や公館設置の例は、 これまでに一度もない。 ソース:日本と南スーダンの関係 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E5%8D%97%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82
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181 :人類発祥の名無しさん[]:2016/11/26(土) 00:24:45.90 ID:1K7hPGiN - ●南スーダン内部での派閥抗争(2013年〜)●
南北対立の終息は、残念なことに南スーダンの平和の到来を意味しなかった。今度は、北部(スーダン) という共通の敵を失った南部(南スーダン)で派閥抗争が始まることになる。2013年7月23日、独立時から 初代大統領を務めていたキール大統領は、南スーダン独立の功労者である与党スーダン人民解放運動 (SPLM)の主要幹部を一斉に解任する内閣改造を行った。独立時から初代副大統領を務めていた リエック・マチャルも、この内閣改造で解任された閣僚のうちの一人であった。 同年12月14日、首都ジュバにおいてスーダン人民解放軍の一部と大統領警護隊が衝突し、部族対立も 相俟って死者500人あまりもの流血の惨事となった。キール大統領は、この武力衝突をマチャル元副 大統領を首謀とするクーデターであると断言して元閣僚を含む関係者を逮捕。これにより、キール大統領は 首都ジュバを掌握することに成功した。2015年3月、赤松武駐南スーダン大使が離任。同年4月27日、 紀谷昌彦が二代目の大使として着任。 首都では一応の安定を見たが、地方各地ではその後もマチャル元副大統領を担いだ反乱が相次ぎ、 キール大統領は国際社会の協力なしに武力紛争を停止させることができなかった。2015年8月、国際 社会の調停の下で「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」が両関係当事者によって署名 されたことにより、南スーダン内部での派閥抗争は一旦、停止した。翌2016年4月には、キール大統領は 対立関係にあったマチャル元副大統領を第一副大統領に就任させるという懐柔策を取り、南スーダンは 派閥対立の解消と復興へと向かうかと思われていた。 ところが、この懐柔策も結果として派閥抗争の解消には資さなかった。同年7月、キール大統領派の正規軍と マチャル第一副大統領派の武装勢力との間で銃撃戦を伴う衝突が発生し、南スーダンは再び内戦状態へと 逆戻りした。この武力衝突はスーダンに駐在していた外国人にも決して無関係ではなく、国連の平和維持 活動に参加していた中国人隊員2名(李磊と楊樹朋)が殺害され、5名が重軽傷を負った。国際協力機構 (JICA)の関係者ら在留邦人47人が退避し、日本大使館員のうち4名も自衛隊機C130に搭乗して自衛隊の 駐屯している近隣国のジブチへと避難した。南スーダンに踏み止まった紀谷大使を含む日本大使館員も、 ジュバの大使館では身の安全を図れないと判断して陸上自衛隊の宿営地へ駆け込み、戦闘状態が終息 するまで同宿営地で宿泊を続けた。 同月25日、マチャルは第一副大統領を解任された。その後、戦闘状態が沈静化して紀谷大使ら日本大使 館員もジュバの大使館に戻ったが、キール大統領派とマチャル元第一副大統領派の派閥抗争が完全には 解消しないまま現在に至っている。 ソース:日本と南スーダンの関係 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E5%8D%97%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82
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182 :人類発祥の名無しさん[]:2016/11/26(土) 00:27:06.32 ID:1K7hPGiN - ●日本の防衛関係者の南スーダン訪問●
2011年12月、渡辺周防衛副大臣(民主党野田内閣)が南スーダンを訪問、 日本の防衛閣僚としては初の訪問となる。 2013年4月、左藤章防衛大臣政務官が南スーダンを訪問、自民党議員の 防衛閣僚としては初の訪問となる。2015年5月、石川博崇防衛大臣政務官が 南スーダンを訪問。 2013年5月、小野寺五典防衛大臣が南スーダンを訪問、日本の防衛大臣と しては初の訪問となる。その後、2015年1月に中谷元防衛大臣が、2016年 10月には稲田朋美防衛大臣が南スーダンを訪問している。 ●駐南スーダン日本大使● 1. 赤松武(2013〜2015年) 2. 紀谷昌彦(2015年〜) ●駐日南スーダン大使● なし ソース:日本と南スーダンの関係 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E5%8D%97%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82
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