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名無しさん@├\├\廾□`/
キルミーベイベーのAA キル3

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キルミーベイベーのAA キル3
523 :名無しさん@├\├\廾□`/[sage]:2014/01/16(木) 02:47:53.07 ID:80xwxEss
なぜキルミーベイベーだけが執拗に「死んだ」と語られるのだろうか。あるいはなぜキルミーベイベーは「死んでしまった」と多くの人が感じたのだろうか。
オープニングテーマとエンディングテーマに暗喩が示されている。
「いつまでふたりでいるのかな」「どこまでふたりでいるのかな」「おとなになるまでいいのかな」「このままふたりでいるのかな」「たのしいじかんがいいのかな」
上記はエンディングテーマ「ふたりのきもちのほんとのひみつ」の抜粋、曲調は和楽器を駆使しており、ソーニャのやすなに向けた「本当の気持ち」が詩われていることがわかる。
一方で、ロシア民謡を基調にしたオープニングテーマは「キルミーのベイベー!」とタイトルが示す通り、やすながソーニャに向けた詩(キルミー)である。
すなわちオープニングテーマは「やすな」のラブコール、エンディングテーマは「ソーニャ」からのアンサーソングとして読み解ける。
一見無意味な単語を並べた電波ソングに思えるが、ワサワサは Wath'up?、「どうかしたの?」と意味を持つスラング。
ナーミンは You know what I mean?、「あたしの言うことわかってるか?」という意味を持つスラング、どちらもHIPHOPで多用される。
カモカモ(come on)、オンサイト(on sight)、スローライド(slow ride)、オールライト(all right)、ソータイト(so tight)、フォリシッ(holy shit)も同様。
ほーみー(homie)はアフリカ系アメリカ人から生まれた「地元の仲間」というニュアンスのスラング。
では、やすなとソーニャは地元の仲間だろうか?そうではない。生まれも、生きる世界も違う。
一話はやすなの独白から始まった。キルミーベイベーは折部やすなの一人称から見た世界である。
作中ではやすな、ソーニャ、あぎり以外のキャラは、シルエット、背景として描かれている。
実質的にあぎりは人外なので日常を生きる人間はやすなとソーニャしかいない。あまりにもソーニャと密接した世界が、やすなの視点から描かれている。
やすなはソーニャに纏わり付く。ウザがられながらも嫌われることはない。なんだかんだでソーニャは付き合ってくれる。
キルミーベイベーの幸福で理想的な日常、楽しい時間が描かれている。
やすなとソーニャは、「ワサワサ(Wath'up? Wath'up?)」「なんだよナーミン(You know what I mean?)」と、スラングを用いて会話する友人となった。
それでも、やすなとソーニャは「広義なベストフレンド!?」で、どうしても近づけない距離がある。やすなとソーニャの生きる世界が違った宿命。
だからこそ、やすなは「キルミーベイベー」と挑発する。ソーニャは「好きよ貴方が殺したいほど」という本当の気持ちは語らないが「腹いせで/どつき」友人として馴染む。
距離があるからこそ、逆説的に理解し合っている。決して完全には近づけないサガを背負った人間の到達できる日常の極致がある。
キルミーベイベーのAA キル3
524 :名無しさん@├\├\廾□`/[sage]:2014/01/16(木) 02:50:29.44 ID:80xwxEss
楽しい時間も永遠に続くものではない。
キルミーベイベーの描く日常は、あまりにも幸福で、平穏としている。幸福の終わりを知る我々は、その裏に不穏さ、非日常を見てしまう。
“不穏さ”はエンディングテーマという「アニメの終わり」に仕込まれている。
「いつまでふたりでいるのかな」と、日常の終局を予感させている。
もとよりソーニャは暗殺者であり、非日常の舞台装置と設定された。
物語は不穏と平穏の均衡によって生み出され、作中に時間軸を呼び込むが、キルミーベイベーは物語を描かなかった。
あたかも永遠の平穏が続くようにアニメを描いてみせた。それは30分に渡る「つまらない」ほどの日常シーンの連続であり、起伏のない物語である。
しかしながらキルミーベイベーは永遠を担保していない。時間軸は「べつのひ」とぼかされているが、季節は描かれている。
楽しい時間の終わりは常に仄めかされている。人間は有限性から逃れられない。
作中で描かれる日常が幸福で理想的なほど、反動的に、必然的に迎える日常の終わりを強く予感してしまう。
「楽しい時間」だけを描き上げたアニメから捨象された「終焉の予感」はフラストレーションとして視聴者の心に火種を残していく
。この火種は例外として、非日常に最も隣接する舞台装置は、最終話の最終パートに片鱗を覗かせた。

「暗殺者ソーニャ」は、いつまで二人でいられるのかわからない。

「女子高生やすな」は、やがて大人になる。

もし、キルミーベイベーが「暗殺者ソーニャの非日常」や「女子高生やすなの寂しさ」描いていたら、フラストレーションは物語の中で解決されただろう。
しかしキルミーベイベーは物語を描かずに、我々の無限の想像力へと続きを託した。我々は「その後」を想像できても、決して1つの現実として定まることはない。
もしかしたら次の日の教室にソーニャは居ないかもしれない。やすなは一抹の寂しさを心に秘めているかもしれない。
「ふたりのきもちのほんとのきもち」は誰にもわからない。
アニメには次回という決定された可能性もあったが、今やそれも終りを迎えた。最終回は「つぎのひ」を残して幕を閉じた。
未来はあらゆる可能性を持つ永遠の中に幽閉されてしまった。
そして、有限性に縛られた我々は次の日に「楽しい時間」の終わりを予感する。
楽しい時間は終わった。解決の術を失ったフラストレーションは、もはや決して取り返しの付かないもの、すなわち「死」として受容される。
キルミーベイベーは「死」という有限性に縛られたものが迎える終わりに対する最大の形容を与えられた。
次の日は来ない。視聴者に残されたものがあらゆる可能性を持つ未来への想像力なら、それは人生でしかない。


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