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名無しさん@お腹いっぱい。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975

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【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
938 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 09:51:22.13 ID:OEqLM02B
>>934
新羅が攻め込んできて金官伽耶が敗北し新羅に併合(532)されたと書紀には書いてある。
しかし金官伽耶の倭王は、この年日本に渡り継体天皇の後の「欽明天皇」として即位している。
日本の本社が明確になった段階で金官伽耶の地を新羅に譲り、本社組織を日本に引き上げた瞬間と考えて良い事件である。
同様なことは大伽耶の滅亡562年でも起きていて、この時点で半島における倭国の拠点を無くしてしまった。
南の部分は百済に分譲している。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
939 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 09:58:19.26 ID:OEqLM02B
本土日本人の遺伝子プールの約 65% は,弥生時代以後に大陸からもたらされた遺伝子に由来していることが示唆された。」(宝来教授ホームページより。)
この結果をふまえれば、我々現代日本人のルーツは韓国なのである。もちろん中国・モンゴル・東南アジアの血も混じっている。
しかし、圧倒的にその形質を受け継いでいるのは韓国からと言う事になる。
「任那」も日本人が支配していたのではなく、日本人と同じ民族がいたのである。
あるいは北九州・西日本に伽耶人がいたと言い換えてもいい。
だからこそ、弥生時代を過ぎて古墳時代に入ってからも、
伽耶・新羅からの渡来は引き続いたのだろう。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
940 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 10:05:11.15 ID:OEqLM02B
<7世紀までの日本列島の実情は、倭人の集落と秦人、漢人、高句麗人、百済人、新羅人、加羅人など、雑多な系統の移民の集落が飛び飛びに散在する、文化のモザイクのような地帯で、
倭国といっても純然たる国境を持つ国家ではなく、倭王があちこちに所有する直轄地というか私領の総和が倭国なのである。
倭国という国家(注:国境)があってそれを治めるものが倭王だったというわけではない。
こういう状態のまま、日本列島の住民たちは、663年の白村江の敗戦を迎えたのであった。(岡田英弘)
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
941 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 10:09:02.27 ID:OEqLM02B
<『日本書紀』の筋書きは、まったく日本列島を中心にして出来上がっている。
天孫が天上から日向の高千穂に降臨するのは、皇室はこの日本列島に自生のもので、外国とは関係ないんだ、という主張である。
これは白村江以後、同じ日本民族とアイデンテテイを主張するために作られた話で、きわめて起源が新しい。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
942 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 10:15:48.94 ID:OEqLM02B
1916年(大正5年)朝鮮総督府《ちょうせんそうとくふ》(1910年〔明治43年〕は、任那日本府の存在を実証すべく古跡調査五カ年計画を策定した。この計画により五年間古跡調査が行われた。
 それで慶尚南道の地域が、東大、京大の考古学の教授を動員して、しらみつぶしに調べあげられたという。
 大正十年に当初の計画を終えた教授の一人京都大学の浜田耕作教授は、つぎのような内容の論文を発表した。
 朝鮮半島南部には、日本と同じような民族が、同じような文化を持って住んでいたらしい。
 任那に日本府があったかどうかと言うような遺跡や遺物はどこにも見つからず、
 任那に日本府があったとは先入観として持つべきではない。(つまり、総督府に配慮してはいるが、遠回しに日本府のようなものはなかった。と結論しているのである)

 何とか任那日本府の存在したことを実証して、韓国支配に論理的根拠を与えようとしたとした総督府の試みは失敗してしまったのである。
 しかし、このことによって任那日本府が、大きな城などの構造物を持たなかった事を知る事ができるのである。
「日本府はあり得た」みたいな結論を出さなかった当時の研究者の、意外な真摯な姿勢は、正に明治人の気風を感じさせるところではないだろうか。
 
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
943 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 10:18:10.41 ID:OEqLM02B
欽明天皇期に入って、
書紀は、日本があたかも韓地の国ではないかと錯覚するくらい、
欽明天皇在位32年間全文、ごく一部を残して任那と三韓の記事で埋め尽くしているというのは、ひどく異常である。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
944 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 10:22:17.20 ID:OEqLM02B
天皇が神であり日本を建国し、天皇一族の血が絶える事なく「万世一系」であり、日本を統治して来たという話には根拠が無く、
その根拠文献である「日本の古典」は、数千年の歴史を通じて日本の「支配者達」が偽造して来たウソ話である。
古事記、日本書紀が捏造である理由は、それまでの過去の歴史を己の都合のよい歴史に変える必要があった輩がいたからともいえるでしょう。
それは天皇が、日本を支配しやすいように過去を自己正当化する物語を作ったのです。
日本を統治したのは天皇のみと正当化する必要があったのは、過去にそれ以外の歴史があったのでしょう。
支配層は別の場所から来たということなのだろう
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
945 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 10:32:03.56 ID:OEqLM02B
韓や中国に登場する国はいずれも「倭国」であって、「和国」もしくは「大和国」「日本国」ではないことである。
「倭国」がどこにあったのか。
いまだ加羅、中国の古代史記載の倭との出来事を「日本書紀」のどこかに割り当てる悪習をやめようとしないように見える
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
948 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 12:59:27.19 ID:OEqLM02B
新羅・任那に力を持っていたものが「やまと」に移動し、その王位を奪ったということである。
神功皇后の祖先が新羅だということを考えれば、新羅征討は疑問であり、それは祖先の事績だった可能性も考えられる。
九州北部にあって、任那・新羅にまで勢力を持っていたものが九州からヤマトに移っていったということではないだろうか。
そうすると、神功皇后の勢力はヤマトではなく、九州北部・新羅・任那に基盤を持つが、倭国には属さない勢力だったということになる(このとき倭国は九州に存在し続けていた)
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
949 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 13:10:03.71 ID:OEqLM02B
戦前は、神功皇后が卑弥呼であるという理解でしたが、
近年は、神功皇后は存在しなかったという説の方が有力になってきました。
代表的な実績が三韓征伐ですが、当時まだ三韓のひとつ新羅がなかったことが大きな理由ですし、
韓国側の歴史に三韓征伐に該当するようなものがないことが大きな理由です。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
950 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 13:12:20.84 ID:OEqLM02B
武寧王即位の502年には、近畿大和国は継体王即位(507年)の前であり、
長年に渡る王権争いの動乱のさ中にあって、とうてい韓地三国と伽耶に介入できる余地はありえないように見える。
この点で言えば、この時点の倭国は、近畿大和国ではありえないのだ。
(もともと、近畿大和国の地理的位置は韓地と遙かに遠く、三国史記に実にしばしば登場する倭国と近畿大和国とは無縁のものであるまいか)
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
951 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 13:17:53.62 ID:OEqLM02B
新羅の地は朝鮮半島の東側、つまり九州や山陰側に面していて、元来倭人の領域だったところである。
新羅本紀にも出雲で生まれた者が新羅で王となったという伝承が描かれている。
新羅と出雲の間の日本海(韓国では東海というらしいが)には環流が流れていて(今でもこの環流は健在で、毎日、その早さを気象庁は発表している!)
原始的な帆や櫂にたよる弱い推進力の船でも容易に行き来できるという。
「倭人」と古代の人が言うとき、それは日本人をさすのではなく、九州北岸、対馬、壱岐、山陰、済州島、韓国東岸で漁労と農業と交易を営む日本海沿岸で生きている、ある一つの固有の文化をもった民族らしき人々をさしていたのだ。
九州と韓国のあいだには、飛び石のように島があり、韓国と出雲の間にはさしたる島がなくて不便そうだがも力強い安定した環流がながれている。
九州北部と島根県の海岸部分に、日本初の出雲王朝が産まれたのである。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
952 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 13:21:26.48 ID:OEqLM02B
武寧王は倭の五王の一人「武」であった。40代にして倭王の位を子に譲り、百済王家の危機を救おうと、渡海したという驚くべき説もある、
百済と倭国の濃厚な関係、新羅との強烈な敵対は、このような背景なしには考えられないことだと思う。
倭国王たる磐井は、武寧王の濃厚な親族(何代にも重なる姻戚関係)として武寧王を手厚く保護した事は間違いのないことである。
百済は朝鮮半島の西側の国である、ここへ近畿大和国は頻繁に大和から大軍船団を出しえただろうか、否。これが倭国、九州説をとる根源である。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
953 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 13:33:59.26 ID:OEqLM02B
朝鮮半島に風雲が立ち始めたのは西暦400年を迎えた頃だった。
倭はそれ以前に半島の至る所に略奪と侵略をくりかえしていたようである。
朝鮮半島の三国と言うとき、百済《くだら》と新羅《しらぎと》と高句麗《こうくり》をさすのだが、
半島にはこのほかに小王国がいわば大きな村落というようなたたずまいで30国はあったであろと推定出来る。
半島に吹き荒れ始めた風雲を今に伝えるものは北韓にいまもそそり立っている高句麗が先代の王、広開土王の遠征を記念して建てた石碑だ。
碑文を深読みすると、ーーー 百済-伽耶-新羅の順番に注目。この順番は大国順だと思う。やがて半島を席巻する新羅は小国にやや抜きん出る国でしかなかった)

高句麗は万と云う大軍を新羅に向けて発進させ、新羅を救援した。
倭軍(おそらく倭国に濃厚な血筋の金冠加羅国に率いられた伽耶軍勢であろう。
伽耶は金冠加羅国《きんかんからこく》盟主とする諸国)は、高句麗軍が新羅国内にはいると退却し、追い打ちをかける高句麗軍によって、全滅させられた。倭冦は壊滅され数知れず斬り殺された。 ーーー
 新羅国の史書「新羅本紀」によれば、新羅は広開土王碑が立てられる前、数百年に渡って倭の来襲に悩まされていた様である

これらの倭は、大和朝廷軍ではない。
【Bae Yong Joon】裴勇俊part975
955 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/05/15(木) 13:44:32.54 ID:OEqLM02B
日本人の起源を考える上で重要な「古事記」と「日本書紀」の神代の説話に、
中国の江南、呉あたりの南方海人族と共通の「海幸・山幸」の伝説、
また北方民族に共通の「国の成り立ちは天から降臨した神によるものである」
という神話がふくまれていること、即ち南北の伝説が合体していることに
注目すべきであるという。
このことは南から北から海を渡っていろいろな人種が列島にやってきて定着し混血したことをしめしている。


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